top of page

「目白通り」

普段身に着けている腕時計には様々な機能が備っている。曜日を示す機能、国際時計、ストップウォッチなど。バックライト機能を使えば、少しばかりではあるが手元を明るくすることさえできる。私にしてみれば、これで十分に「スマートウォッチ」である。私はこのスマートウォッチをストップウォッチ機能に設定してから歩き始める。スタート地点は和敬塾正門。よーい、スタート。

歩き始めて間もなく、本当に「間」もなく、左手に広大な芝生が見えてくる。「目白台運動公園」である。ありとあらゆるところが窮屈な東京の土地事情を考えれば、この運動公園の広さは驚きに値する。サッカーコート一面は裕に確保でき、同時に複数の競技をおこなっても差支えないくらいの大きさである。そして、芝生のグラウンドだけではなく、その周りにはランニングコースや、小さな噴水が出る水場もある。特にこの水場は、平日・休日問わず晴れた日には、多くの子供が、母親とともに遊びに来ている。

遊びに来ている子供は、おそらくはまだ小学校にも上がっていない子たちであろう。友達と水の掛け合い、追いかけっこなど、実ににぎやかである。見ている私まで微笑ましくなる。今ではこのように感じる私ではあるが、大学に入るまでは子供という存在はあまり好きではなかった。理由は至極簡単で、子供は無思考に行動し、ただただ騒々しい存在としか思えなかったからである。自分の欲求のままに行動し、その欲求が満たされなければ、わあわあ喚く。こちらの言うことはなかなか理解できない。子供の言動はこちらには理解しがたいことが多い。「理性」という言葉からはもっともかけ離れた、獣のような存在に思えたからである。しかし今では、過去の自分からすれば騒々しいとも思える水場での光景に、何か輝かしい澄んだものを感じる。

子供に対する意識をここまで大きく変えたものは大学である。より正確に言うならば、大学生の姿である。入学して間もない私であるが、これまで目にしてきた大学生の多くを端的に表すと「怠惰」の文字がぴったりに思える。大学の本分が学業だけではないことは、私も認めるところであり、正直な話、学業だけなら基本的には一人ですることは可能である。しかし、そうは言うものの学業を疎かにしている学生があまりにも多すぎると思ってしまうほどに、大学生の多くは勉強をしないで、サークル活動、飲み会、バイトなどに明け暮れている。そして、そうした人の多くが口にするのが「勉強しないとヤバいな」というセリフである。勉強をしなければならないと分かっていながらも、その理性の声に逆らい、享楽的な方向へと流れてしまう。理性にしたがっていないという点では、幼い子供も大学生と同じようではあるが、根本から全く異なることは、子供は従うべき理性の声、規範ともいうべきものをまだ持っておらず、自らの心のままに行動している点である。だが、普通の大学生ならば小中高と学校生活を経る中で、理性の声、つまり判断・評価などの拠るべき基準である「規範」は生成されていくものである。子供はその規範がないために非理性的とも思えることをするが、それは言い換えれば、純粋無垢な心の運動であると、私はつい最近になって気付いたのである。逆に、大学生は何度も言うように、規範は持っているはずであるが、実際にはその規範に従わずあるいは従えず、自らの欲求に負け、享楽的な行動をとってしまいがちである。私はこの理性の声、規範さえも押さえつけてしまう、この心理的な動きを「怠惰」と名付けたい。もちろん怠惰のない人間が望ましいが、人間はそう完璧にはできていないので、なかなか怠惰を抑えることは難しい。しかし、私の目に入ってくる大学生の多くは、あまりにも怠惰的である。そういったことで、純粋無垢で怠惰のない子供は澄んで見え、輝かしく、微笑ましく思えるのである。

こんなことを考えていたら、いつの間にかに運動公園を過ぎて「不忍通り」との交差点まで来てしまった。物思いにふけっていると周りが見えなくなるから危険である。赤信号に気付かずに渡ってしまったことも何度かあるので気をつけなければならない。この「不忍通り」との交差点を過ぎると、人の波が押し寄せてくる。毎朝私はこの波とは逆向きに通学している。波の正体は、運藤公園の通りを挟んだ反対側にある日本女子大学の生徒らであるが、毎日毎日非常に騒々しい。話し声笑い声、朝から賑やかなこと。さらにこの時期になると日傘をさす生徒も多いので、もともと狭い歩道はさらに狭くなり非常に歩きづらい。

私は自分が「我が道を行く」タイプの人間だと自認しているが、さすがにこの歩道の真ん中を堂々と歩き、周りが私をよけていくこと期待することはできない。それどころか多勢に無勢、押し寄せてくる波はあまりにも大きく、私一人では到底は刃向うことはできず、波の妨げにならないように、歩道の端を負け犬のように進むのである。こういったわけで毎日多くの女子学生とすれ違うわけだが、そのたびに惨めな思いをしているのである。不忍通りとの交差点から大学正門までの目白通りは、歩道の進行方向を決める暗黙の多数決に敗れた私にとっては、物理的にも精神的にも非常に歩きにくい道である。波という圧倒的マジョリティと、それを逆走するマイノリティ。この多数と少数の対立は多数決の原理が存在する限り、どこにでも現れる構図であるが、この歩道ようにマジョリティがあまりも大きいと、マイノリティは自分の主張を無言の内に押さえつけられてしまう。例えば、私が「私にも歩道の真ん中を堂々と歩く権利はある」などと言って仮にそれを実行しようとしたとしても、マジョリティに多大な迷惑をかけることとなり、とても実行に移すことはできなさそうである。無言の圧力が私の主張を押さえつけるのである。かといって、マジョリティの迷惑など気にせずに「これが私の権利であり、主張である」などと言い無理矢理にでも、実行しようものなら、それはもはやテロリズムであろう。このようにマイノリティには現状や状況を変えるだけの力がない。だからこそ、マジョリティの人々は利己的な行動をとるだけでなく、多数決に敗れたものたちへの配慮が必要である。これは、この歩道の例に限った話ではなく、日常生活や政治の中など生きていれば常に起こる問題である。私自身もマジョリティの一員となることはいくらでもあり、その時には同時にマイノリティになるものがいる。対立し多数決に敗れたものへの配慮は何時でも大切にしたいものだ。

毎朝多くの女子学生とすれ違うということから随分と考えが膨らんだものだ、と思いながら周りに目を向けると、もう「千歳橋」まで来ていた。私にとって橋はくぐる方ではなく、渡る方。橋をくぐるのは「明治通り」と「都電荒川線」である。否、正確には「千歳橋」の下をくぐっているのは「明治通り」だけである。都電は明治通りと並行しているが、千歳橋ではなく「千歳小橋」をくぐっている。くぐっているのが小橋だろうが、普通の橋だろうが気にする必要はないと多くの人は思うかもしれないが、私はこのような細かいところまで気にしてしまう。考えの種はこのようなところに隠れているからである。

この場所を通り、細部にさほど注意を払わない多くの人にとって、明治通りがくぐっているのも都電がくぐっているのも千歳橋であり、千歳小橋などというものは、その人の頭の中には存在しないかもしれない。高校時代の倫理の授業で、「頭の中に存在しないもの、つまりは認識されていないものは、現実の世界で実際に存在していたとしても、実体として存在していないことと同義である」といったことを聞いた覚えがある。私のおぼろげな記憶が正しいとしたうえで、この論理に従って考えてみると、小橋の存在を認識していない人にとっては、小橋がそこに存在していないことになるから、「小橋はそこに存在しない」という命題が真となる。つまり、その人が「小橋は存在しない」といっても事実なのである。しかしこれは、個人の精神世界の中での事実であり、現実世界の普遍的な真実ではない。現実世界には間違いなく千歳小橋は存在するからである。「事実」と「真実」は必ずしも一致しない。この小橋の一件を見ても、私の中の事実と、実世界の真実が異なることは往々にしてあり得る。私自身も含め、人は自分の認識による事実が正しいものだと信じている。しかし、必ずしも「私の事実」は真実ではないことを肝に銘じなければならない。いかに細心の注意で物事を認識しようとも、偏見や先入観による感覚の誤謬は生まれてしまうので、人が常には真実を捉え続けることは不可能である。だからこそ、重ねて言うが、「事実と真実は必ずしも一致しない」ことを心に留める必要がある。

おぼろげな記憶を前提に考えを膨らませたが、なんとも足元の不安定な論の進め方であろう。より厳密に思索を深めとも思うが、そろそろ目的地に到着しそうだ。もうすでに学習院高等科の校門は通り過ぎている。あとの歩数は三桁を要さないかもしれない。もう正門が見えてきた。私は右利きではあるが右手に着けているスマートウォッチに目を落とし、時間を確認すると同時に、時計に付いているボタンの一つに左手の親指をかける。大学の正門をくぐると同時に、「ピッ」

「十五分二十五秒、いつも通りのペースだな」

#第2巻

Recent Posts
Tags
bottom of page