小説を観る 第一回
[endif]--![endif]--[endif]--![endif]--小説は間違い無く現実よりも奇である。加之、間違い無く現実よりも複雑である。小説が織り成される際に張られる許多の縦糸が物語の内容――いはゆる筋なるものだとすれば、その横糸は物語の言説――言わば語りそのものである。織物の場合、我々はその完成品から縦横を問わず構成部分たる糸を発見しうるのであるが、これが小説となると、我々読み手の視線は、残念な事に忽ち縦糸にばかり注がれてしまうのである。これはこの上なく嘆かわしい事である。なぜなら、単にいいお話を享受する事のみが目的であれば、敢えて小説なんぞという間接極まりない手段を採る必要はなく、――寧ろ立派な舞台美術の下で上手な役者さんにお芝居をして貰った方が余程直接的に心に響くだろう!――小説からただその内容ばかりを見ようとする行為は、とりも直さず小説固有の極めて魅力的な成分を閑却する事を意味するのである。これが書き手に対しても読み手に対しても惜しむべき事であるのは言うまでも無い㈠。[endif]--
そこで、今回から暫く連載として読者諸氏が今後小説を読む際、その横糸に注目する為の手がかりとなる様な手段のいくつかを、なるたけ単純かつ平易に紹介して行こうと思う㈡。また当稿で取り上げる諸技術は、殆どが先人の既に指摘、或いは開発した物であり、私の新たに発見して主張する物はほぼ無い事を此処に明記しておく(然し処々に私が引用する小説の箇所はおよそその限りでは無い)。
始めに明確にしておきたいのが、物語の内容と言説とについてである。ここでは冒頭でも述べた通り、物語の内容は、いはゆる筋――例えば「川の上流から桃が流れてきた」と言う物語における、桃が流れてきたという事実を表すものとして、他方物語の言説は、語りそのもの――言わば、例の桃のくだりで言う処の「川の上流から桃が流れてきた」という文そのものを表すものとして話を進めて行きたい。
第一回である今回は物語の持つ速度形態、言わばテンポについてお話しして行こうと思う。少し考えれば気付きうる事なのだが、小説の中に流れる時間は必然的に二重性を帯びていると言う事ができる。つまり内容が持つ時間――例えば、桃太郎が生まれてから成長するまでに物語の世界内で流れたであろう何年かの時間――と、言説が持つ時間――つまり、小説において桃太郎が成長するまでに語られた文章を読むのに読み手が消費する時間――との関係がそれに当たる。
そこで内容と言説との関係を鍵に、物語のテンポを三つに分類することが出来る。すなわち「加速」と「等速」、それから「減速」とである㈢。
「加速」とは、言い換えれば省略である。例えば「五年経って、僕等は高校生になった」と言うが如き。ここで内容と言説との関係を見てみよう。物語の内容において例の一節が持ちうる時間は、言うまでも無く五年である。「五年経った」と言っているのだから、小説内の世界では誰が何と言おうと五年過ぎたのである。一方で、この一節が持ちうる言説の時間は刹那極まりない。なぜなら、読み手は「五年経った」という文を読むのに物の三秒と掛からないからである。「加速」のテンポを使えば、一頁で一世紀、否一行で地球滅亡までの時間を飛び越す事が出来るのである。無論、その一節を読むのに我々が消費する時間がその内容的時間よりずっと短い事は最早言うまでも無い。
次に「等速」についてである。端的に言うと、小説における会話の場面がそれに相当する。次の文を見てみよう。
两人は垣を境に何か談判して居る。聞いてみるとこんな詰らない議論である。
「あれは本校の生徒です」
「生徒たるべきものが、何で他の邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ斷つて、取りに來ないのですか」
「是から善く注意します」
「そんなら、よろしい」
(漱石全集第一巻『吾輩は猫である』岩波書店 昭和四十年)
読んでみれば分かる様に、ここで見た会話における内容と言説との時間の差異は限りなくゼロに近い㈣。ここに関しては、本文で敢えてこれ以上絮説するには及ばないだろう。
三つ目の「減速」についてだが、これは至極単純に言い換えれば描写である。例を挙げる前に少し想像してみよう――あなたの前に一本のペットボトルがある。大きさはどうか? キャップの色は? 銘柄は? あとどれ位残っている……――現実世界ではこれらの情報を入手する(目視する)のに、物の二三秒もかからない。一方物語の言説ではどうだろうか? 先の質問群に描写で答えて行くと、はっきり分かるだろう。すなわち、「ペットボトルがある。丸い五百ミリリットルのいろはすで、味は最近出たトマト味である。キャップは緑、既に半分位飲まれている」といった様になる。このペットボトルの描写に充てられた言説を読むのにかかる時間は我々が現実に其れを目視するのにかかる時間に比べると極めて長い。つまりこの手の部分では、物語は非常に緩やかな速度で進んでいるのである。ここで実際に小説を見てみよう。ただし、次に引用する文章は、内容自体はこれまでの話と大して関係がない。従って、ここでは私が傍点を打った最後の一文の他に見るべき処は無い。特別な興味でもない限り大いに読み飛ばして結構である。
[endif]--![endif]--[endif]--![endif]--併しそれは三面記者の書いた事である。木村は新聞社の事情には矒いが、新聞社の藝術上の意見が三面にまで行き渡つてゐないのを怪しみはしない。[endif]--
今讀んだのはそれとは違ふ。文藝欄に、縱令個人の署名はしてあっても、何のことわりがきもなしに載せてある説は、政治上の社説と同じやうなもので、社の藝術觀が出てゐるものと見て好からう。そこで木村の書く物にも情調がない、木村の選擇に與つてゐる雜誌の作品にも情調がないと云ふのは、木村に文藝が分からないと云ふのである。文藝の分からないものに、なんで脚本を選ばせるのだらう。情調のない脚本が當選したら、どうするだらう。そんな事をして、應募した作者に濟むか。作者にも濟むまいが、こつちへも濟むまいと、木村は思つた。(中略)兎に角此一山を退治ることは當分御免を蒙りたいと思つて、用簞笥の上へ移したのである。
[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]--書いたら長くなつたが、これは一秒時間の事である。[endif]--
(鷗外全集第七巻『あそび』岩波書店 昭和四十七年)
小説に固有であり、よく知られた現象である「減速」を、鷗外は些か親切過ぎる㈤方法を以て明確に示したのである。また、ここでは対物描写でなく心理描写によって物語が減速している事にも注目したい。
さて、ここまで物語の三つのテンポの紹介をしてきたが、実際にはどのように使い分けがされるのだろうか。その目的は、それこそ書き手によって幾らでも増殖しうるのであるが、一般的な働きとしては、読み手の目を引寄せる事、換言すれば物語にヤマ場を作る事が挙げられる。鷗外の『舞姫』で実際に見てみよう。この作品を時間的関係を優先して場面ごとに分け、場面ごとの経過時間を纏めると、凡そ次の通りになる㈥。(なお、頁と行とは岩波版全集に拠る)
第一場面「帰路船中」
→ 四二五頁一行 ~ 四二六頁八行 …… 一日以内
第二場面「太田豊太郎の出生」
→ 四二六頁九行 ~ 四二六頁一五行 …… 二十年足らず
第三場面「伯林到着直後」
→ 四二六頁一六行 ~ 四二八頁三行 …… 二か月余り
第四場面「伯林での変化」
→ 四二八頁四行 ~ 四三〇頁三行 …… 三年
第五場面「エリスとの出会い」
→ 四三〇頁四行 ~ 四三三頁四行 …… 数時間
第六場面「エリスとの接近」
→ 四三三頁五行 ~ 四三五頁一行 …… 凡そ数週間
第七場面「楽しき月日」
→ 四三五頁二行 ~ 四三六頁一四行 …… 数週間
第八場面「天方伯との面会」
→ 四三六頁一五行 ~ 四四〇頁三行 …… 一両日
第九場面「訪露」
→ 四四〇頁三行 ~ 四四四頁七行 …… 一月二十日余り
第十場面「帰国決定→卒倒」
→ 四四四頁八行 ~ 四四六頁二行 …… 二、三日余り
第十一場面「覚醒→帰国」
→ 四四六頁三行 ~ 四四七頁七行 …… 一月余り
ここから明らかなように、物語が最も大きな加速を見せるのは第二場面「太田豊太郎の出生」で、七行で二十年弱が経過している。一方で最も減速したのは第五場面「エリスとの出会い」で、ここでは三頁と一行、すなわち四十九行の中で数時間しか経過していないことになる。次に大きく減速するのが第八場面「天方伯との面会」で、ここでは三頁と七行、すなわち五十五行で一日が経過している。物語の転換に大きく作用する二人の登場人物、すなわちエリスと天方伯との出会いの場面に、このように相対的に大幅な減速がもたらされている事は注目に値する㈦。つまり、鷗外は『舞姫』において基本的に程度の異なる諸々の加速を用いてテンポ良く物語を進めながら、物語の転換点、いわば物語のヤマ場で大幅に減速してみせるのである。――と言うより寧ろここでは、減速する箇所では大体何か起きるのである。好き嫌いは別として、読み手の注意を引く作品のヤマ場がどうしてヤマ場たりうるのか。其の鍵の一つが、取りも直さず物語のテンポなのである。当然ながら、その鍵はテンポ一つでは無い。小説の中にはまだまだ無数の仕掛けが為されてゐるのであるが、それはまた次回に。
注釈
一 しかし、現在屡見受けられる物語内容の奇抜さ(一般的に言う面白さ)のみを以て差異を生ぜしめようとする一部の作品群は凡そ此の対象ではない。なぜなら、其の手の小説の書き手は、恐らく現代の多くの讀み手同樣、物語内容以外の領域で語られた言葉にさしたる注意も敬意も払つてゐないからである。畢竟渠の手の作品群は娯樂でこそあれ、文學では無いと言へるのである。
二 些か複雑と思はれる事柄は、専ら注釈を以て論ずる事とする。從つて、本文の内容に一抹の無聊を禁じ得ぬ賢明なる諸彦は、注釈をも参照の上御覧頂ければ、我々雙方にとつて更なる喜びとなる事間違ひ無い。また本文にある通り、當稿の目的は小説に關する何らかの新たしい概念や理論を主張する事ではない。從つて讀者諸氏には、豫め當稿の試みが花間に一壷の酒を酌む獨翁の酔興に一般である事を心得て頂きたい。
三 著書『物語のデイスクウル』(花輪光、和泉涼一訳 水聲社 一九八五年)に於いて、プルウスト『失はれた時を求めて』のテクストを例に小説の方法論を説いたG・ジユネツトに拠れば、此のテンポは必然的に四段階に分類出來る。即ち「省略法」、「描寫的休止法」、「情景法」、其れから「要約法」である。省略法は本文にある「加速」と略同義である。たゞ「加速」は後説する要約法をも含有してゐる爲、省略法は「加速」の中に於ける「何年經つた」と云ふが如き、時間を省略する言説のみを指す点に注意すべきである。
「描寫的休止法」は大方本文で云ふ「減速」に相當する。但し注意すべきなのは、ありとある描寫が、皆物語の減速を導く譯ではない事だ。仮令描寫の形態を取つてゐても物語が減速しない例は無數に存在する。例へば次の樣な言説はだうだらうか。詰まり「車窗から眺めてゐると、彼樣に大きかつた山もみる〳〵内に小さくなつて、アポロチヨコレエトの樣に爲つて了つた。」と云ふが如き。此の種の描寫は、取りも直さず主人公の動的知覺――此處では、主人公自体は動いてゐないが――に拠るものであり、物語はさして――少なくともペツトボトルを描寫する時に比しては――減速する事が無いのである。畢竟、凡そ知覺以外の一切の動作が含まれない描寫によつて減速が齎された状態に附き、我々は其れを「描寫的休止法」と呼ぶ事が出来るのである。「減速」のテンポに於いて描寫が減速を齎す場合、其の描寫は例外なく「描寫的休止法」の其れに相當するのである。
「情景法」は、原則的に本文で云ふ處の「等速」に相當するものであり、本来は描寫や語り手による余談等の排除された言説を指すのであるが、ジユネツトに拠れば情景法はプルウストの『失われた時』によつて「あらゆる種類の附随的な情報や状況がそこに収斂する」やうに爲つたため、一概に「等速」の運動とは云へぬのである。然し、此處では一應の理解として、一般的に「等速」にある程度相當するものとして會話の「情景法」を捉へておく事は問題無いやうに思はれる。
「要約法」は本文で云ふ「加速」から省略法を除いたものである。謂はゞ、纏まつた月日――數日とか數か月とか數年とか――に及ぶ出來事を幾つかの文、或ひは數頁の内に縮めて語る方法である。例へば「桃太郎はすく〳〵育つて立派な青年に爲り、おじいさんとおばあさんとに鬼退治に徃きたひと云ひました。桃太郎は刀、鎧ときびだんごとを貰ひ、犬と猿と雉とを從へて鬼が島へ徃きました。」と云ふ二文の中では「十五年經つて」と云つたやうな具体的な省略は行はれてゐないものゝ、明らかに物語が高速度を以て進行してゐる事が見て取れるのである。また、要約法は省略法と異なり、言説の持つ時間が内容の持つ時間を超へない限りと云ふ条件の下、其の要約の程度次第で幾らでも内容と言説との時間の差を縮める事が出来るのである。
此れらを一通り紹介した後で、ジユネツトが解説すべく用いた此れら四つのテンポに關する數式を此處に紹介する事は、諸氏の理解を大ひに助けるものであると考へるので以下に引用する。其處では、物語内容の時間はTH(Temps d' Historie)と、物語言説の疑似的、或ひは約束事としての時間――詳しくは注釈四を参照の事――はTR(Temps de Récit)と表されてゐる。
休止法 ―― TR = n TH = 0
∴TR ∞ > TH
情景法 ―― TR = TH
要約法 ―― TR < TH
省略法 ―― TR = 0 TH = n
∴TR < ∞ TH
「~ ∞ > …」(~は…よりも無限に大きい)の記号に關する彼の説明は此うである。曰く「たしかに數學的にはオーソドックスではないかもしれない。しかしながら、私はこれらの記号をそのまま用いることにする。なぜなら、それ自体なるほど數學的には疑はしいとしても、いまの場合はまつたく明快なある概念を指示するにあたつて、この文脈においては、そして健全な常識人にとつては、これらの記号がおよそ考えうる限りもつとも透明度の高いものであると思はれるからだ」と。
四 そも〳〵物語言説の持ち得る時間は、完全に讀み手に委ねられる宿命にある。なぜなら、テクストを讀む際に要する時間は――演劇や映画などが絶對的、不可逆的に進行する物語の時間を受け手に強要するのに對し――讀み手の意思に拠る處が極めて大きいからである。其れこそ、「三か月後」と云ふ語を讀むのに三か月以上かける事も可能ではあるし、一方で三頁にも渡る美女の描寫を、凡そ我々が現実世界で美女を目視するのにかゝる時間――其れは普通極めて一瞬である――と同程度の速度で讀み飛ばす事も出來るのである。從つて会話だからと言って現実世界の会話と等速で讀み進めねばならない理由は何處にもないし、会話中に自然に生じる一寸した間なんぞに於いては、此れは再現不可能である。本文で私が「限りなくゼロに近い」と云つたのは、物語言説の持つ時間が受動的に決定されることを踏まへた上で、物語のテンポの中に於いては、会話の部分が相對的に最も内容と言説との經過時間の近似する物であると云ふ事を述べる為である。故に会話の描寫に於ける言説と内容との「等速」的關係は、ジユネツトの言葉を借りれば「約束事として」規定されるものだと云へるのである。
五 引用箇所の直前にも、主人公木村が煙草の朝日を一本吸ふ迄の間に女中の觀察や分析、其れから木村自身の心理描寫が「マツチを擦つて、朝日を一本飮む」處から全集版にして五十三行に渡り述べられた後で「これは長々とは書いたが、實際二三分間の出來事である。朝日を一本飮む間の出來事である」と親切にも斷つてゐるのである。從つて其の後の「一秒時間――」の件(くだり)は稍お節介が過ぎるやうに、或ひは些かくどく讀み手の目に映るのである。
六 各場面に於ける經過時間の豫想は次のやうに行つた。
第一場面は「人知らぬ恨」により歸路心適はざる處有るを述べ、其の所以を語り始める部分である。時間の經過を表す語は無く、獨逸での物語とは完全に異なる時系列の下に存在する爲に、恐らく今回に於いては、此處は大して考察する必要の無いやうに思はれる。
第二場面は、「十九の歳」に学士を取得、官僚として「三とせばかり」勤務した末に、二十二歳で洋行した事が述べられてゐる。此の部分が「幼き比より」との言葉で始まる事から、此の場面で流れた時間は大体二十年足らずであると見るのが穏當であらう。
第三場面は伯林に降り立つた際の感想の次に「ひと月ふた月と過す程に」とある。
第四場面は冒頭に「かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが」とあり、其の結果心情及び行動が変化した事が述べられている。此處に從つて此の場面の持つ時間は三年許りと見て差し支へあるまい。
第五場面は「或る日の夕暮なりしが」と始まつて、エリスの窮地を救ひエリスの家を去る部分までであり、さう長い時間が經つたとは考へ難い。
第六場面は明確に豫想する事が出來ぬ。なぜなら、エリスを救つた後、豐太郎とエリスとの仲がある程度の時間をかけて深まつて徃く過程が、一度目の訪問を描写した後「少女との交漸く繁くなりもて行きて」と云ふ言葉の下、括復的(括復法とは、n回起こつた事を、繰返しを仄めかす言葉で纏めて表現する方法の事である――爲念)に要約されてをり、具体的な時間詞が明記されてゐないからである。たゞ、豐太郎が官職を解かれ、去就を決するに一週の猶豫が與へられた事、次の場面が其の締切りの少し前から始まる事などから凡そ數週程度であらうと推測したのだが、此處では第六場面の具体的な時間を具に論ずるより、寧ろ第五場面が三頁と一行で數時間の出來事を描いてゐる事に対して、第六場面が要約法を用ゐて、二頁足らずの内に第五場面よりも可なり長い時間を含有させてゐる事に注目すべきであると考へる。
第七場面は相澤から通信員の職を紹介された豐太郎がエリスと暫し「樂しき月日」を過ごす部分であるが、此處にも明確な時間詞は存在しない。然し、第六場面で「離れ難き中」と爲つた際か或ひは其れ以降かは不明だが、第七場面の内にエリスが悪阻を催す事から、凡そ數週間乃至は一月程度の時間が第七場面で流れたと見る事が出來るのではないだらうか。
第八場面は「明治廿一年の冬は來にけり」と云ふ語で始まるのだが、三行後に「エリスは二三日前の夜――」とあり、其の更に三行後に「今朝は日曜なれば」とある事から、この場面の時間的開始点は此の「今朝」にあり、其れ以前の部分は第七場面からの時間的断絶を補足的に接合する充足的後説法(後説法とは、謂はゞAの時点より前の出來事BをAの時点で語る事である。例へば、「僕は腹を壊した。僕はトイレで昨日の事を思い出した。昨日、僕はアイスクリイムを十個も食べたのである。」と云ふが如き。後説法によつて言及される事柄の持つ時間の幅が現在Aまで至らずに、過去Cから過去Bの間に存在するものを部分的後説法と呼び、言及が過去C又はBから現在Aに至る物を充足的後説法と呼ぶ。トイレの例は部分的後説法である。また、此れに關しては以後詳しく言及する積りではある)による語りであると云へるのでは無いだらうか。さうと假定すると、天方伯との面会及び後の相澤との對話は一两日中に行はれたものであるから、此の場面は三頁と五行の間で一日を含有すると云へるのである。
第九場面は、本來なら段落の変はる四四〇頁六行目「一月ばかり過ぎて」と云ふ文から始まるとするのが穏當と思はれる。然し四四〇頁三行目「『カイゼルホオフ』(天方伯のゐる處)へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に」と云ふまたしても用ゐられた括復的な要約に注目すると、天方伯を訪ねると云ふ反復的行爲が「一月ばかり過ぎて」との言葉によつて少なくとも一か月以上継續した事が明らかになる――つまり、反復的行爲の境界を限定するが故に、この括復的要約と「一月ばかり」の部分との関連は極めて密であると云ふ事が出来る。従つて、時間的関係を優先して見た場合、第九場面は四四〇頁三行目途中の「『カイゼルホオフ』へ通ふ」から始まるべきであると考へるのである。また、此の場面は一か月の継續した反復的行爲と「二十日ばかり」の訪露で構成されてゐる爲に、其れが持ち得る時間は一か月と二十日餘りであると云へるのである。
第十場面は、「二三日の間は(中略)家にのみ籠り居りしが」と始まり、二三日過ぎた後の歸国決定の場面は一两日中の出來事と考へられるので、此の場面で流れた時間は二三日餘りと見て差し支へ無いと考へる。
第十一場面は、完全な覺醒迄に數週間を要した後、要約的に語られる事後處理から、其れなりの時間が經過したものと考へる。
七 エリスとの出会いが轉換点であるのは最早言うまでもない。其れと竝んで天方伯の存在が非常に重要なものとなるのは、其れは伯が豐太郎の去就に深く關與すると云ふ内容的要因からも間違いない。然し、言説の領域に於いても、彼等を或る意味對句的な關係で結び附ける事に拠つて内容との間に相關關係を生み出してゐる、換言すれば言説の方面からも彼等の重要性が語られてゐる事にも注目しておくべきである様に思はれる。具体的には、「禽」と「鳥」と「雀」とである。
件の言説は、豐太郎が伯と訪露してゐる際の心情描寫に存在する。すなはち、伯と初めて面会した折は「屋上の禽」のやうに遠かつた物であつた大臣の信用が、今や其れは足を縛られた「鳥」の如き状態に自分を捉へる迄に接近してをり、亦其の束縛は伯からのみならず以前までの上司からも同様に受けて來たものであつたと云ふ譯である。此處に関しては石橋忍月が「屋上の鳩は手中の雀に如かず」と云ふ獨逸の諺を持ち出して、『舞姫』での言説は、此の諺を用いた對句構成だとすれば、誤用ではないかと批判し、鷗外も一應認めてはゐる。(全集第二十二卷『舞姫に就きて氣取半之丞に與ふる書』昭和四十八年)此處で用ゐられたのが「鳩」で無く「禽」であるのは、取りも直さず「鳥」故である。難解で些か馴染みの無い(遠い)漢字から、一般的で簡単な(近い)漢字への移行が示唆する處は、此の段落の始めで述べた通りである。其の爲には「鳩」から「鳥」では無く、矢張り些かの無理を犯しても「禽」から「鳥」に移行しなければならなかつたのだと思はれるのである。
亦「雀」が現れるのは第八場面冒頭にある「クロステル街のあたりは凸凹坎坷の處は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に門を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。」と云ふ部分である。此れは此處のみであれば單なる情景描寫として看過しうるのであるが、前述の「屋上の鳩は――」の言葉に從つて見れば、此の「雀」も亦何らかの比喩――手中にあつて、且つ餓えて凍えてゐる存在の比喩――だと見るべきやうに思はれる。そして其れは云ふ迄も無くエリスの事であらう。畢竟「屋上の禽」である天方伯と、餓えて力盡き路上に「落ちて」ゐる「雀」のエリスとの狭間で、足を縛られながら羽ばたいてゐる「鳥」すなはち「余」と云ふ此の關係が内容と相關しつゝ、作品を貫徹する印象を作り上げてゐと云へるのではないだらうか。亦此の一連の技術は、『舞姫』と同じく獨逸三部作の一である『うたかたの記』にも見出す事が出來、此れらの厳密な計算による比喩表現の選擇の結果生じる緊迫は、鷗外作品の數多ある特徴の一つと云ふ事が出來るのではないだらうか。
尚ほ、鳥の比喩表現に關する事、其の他『舞姫』の物語言説が持つ諸諸の効果や、いはゆる比喩表現の構造化――此れに関しても以後言及予定ではある――に關しては、文藝批評家渡部直巳氏の、日本近代文學史を技術の点から見つめる著作『日本小説技術史』(新潮社 平成二十四年)に詳しいので、其方も御参照されると、諸氏の理解は一層深まるものと信ずる。
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#第3巻