小説を見る 第二回
眼前の美少女に対して得意満面に展開した笑い話が、前も聞いたという言葉のもと落ちを迎える事無く無残にも斬り捨てられる泣血の至り。教場で週毎に幾度も同じ図を用いて同じ話を繰り返す白頭の老師への隔靴掻痒。ことほど左様に語りの回数に敏感なわれわれであるが、果たして小説において物語が語られた回数に関しては、日頃いかほどの注意と関心とを払っているだろうか。
小説において語りが繰り返される場合、その語りは性質上かなり大まかに二分できる。一つは、行為が繰り返された結果語りも複数回に及んだもの。もう一つは、行為の反復が無いにも関わらず語りが複数回に及んだものである。
言うまでも無く、一つの事柄に関する語りが繰り返されるのは、語り手にとってそれが重要な話なのだからであり、それは教場であろうが小説であろうが同じ事である。すなわち、小説における語りの回数を勘定する事は、時に語られた言説の重要性――語り手の主観的な尺度による重要性を考える事になる㈠とも言えるのである。
前述の分類をもう少し詳しく見ていくと、物語言説における語りの回数と、実際に物語世界内でものごとが起こった回数との関係から、われわれは更に幾つかの分類を試みる事ができる。
一つは、一度起こったことをただ一度だけ記す方法。言うまでもなく、これは小説内において――更には日常的に最も多く取られている形である。
あえて実例を挙げると、「私は今日ご飯を食べた、それから図書館へ行った」なんていう語りがそれである。此れに関しては、前出のジュネットが「単起法」という名を付けている事以外に特筆すべき点はないように思われる。
二つ目はn度起こったことをn度物語る方法(つまりn=n)。例えば次のような言説がそれに当たる。すなわち「僕は朝どら焼きを食べた。昼にもどら焼きを食べた、そしてなんと夜にもどら焼きを食べた」と言うものである。これは時間を変えて「どら焼きを食べる」という行為が三度繰り返された結果、語りも同様に三度行われたというものである。これもまた単体では、基本的に小説内において大した重要性を持ちえないので、ひとまず閑却しても構わないだろう。㈡
三つ目は、n度起こったことを一度だけ語る方法である。一般的に、小説内において二つ目のn=nの形の語りが実際に行われることは比較的まれである。なぜなら、多くの場合、小説内ではn=nの反復はまとめて表現されるからである。例えば先の文だと「僕は今日三食全てどら焼きだった」と言った風に。この様に、繰り返された行為――或いは類似性を以て抽象された諸行為を一度の語りでまとめてしまう方法は一般的に括復法と呼ばれる。括復法の実例は枚挙に遑がないが、ここでは前回も取り上げた森鷗外『舞姫』を見てみよう。
「嗚呼、何等の惡因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我が僑居に來し少女は、……終日兀坐する我讀書の窗下に一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬ……」
(鷗外全集第一巻『舞姫』岩波書店)
ここで「少女との間――」というところを、物語世界内の現実に忠実に「三たび少女と会ひし時云々、四たび彼を室に見し時云々」と語っていては語る側にとっても読む側にとってもじつに面倒極まりない。また単に面倒であるのみならず、物語のテンポにも大きく支障をきたすことは間違いない。と言うのも、『舞姫』のくだんの場面において重要なのは豊太郎とエリスが親密になったと言う結果なのであり、その過程ではないからである。語り語りの頻度が物語のテンポに大きく作用する好例であろう。
ところで、括復法における語りの回数は常に一度であるとは限らない。寧ろn度起こったことをm度語ることの方がより一般的であるといえるだろう。(当然この時nの値は、常にmより大きくなる)漱石『猫』の冒頭には次の様にある。
「第一に逢つたのがおさんである。是は……吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。……吾輩は再びおさんの隙を見て臺所へ這ひ上つた。すると間もなく又投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出されて、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶して居る。」
(漱石全集第一巻『吾輩は猫である』岩波書店 昭和四十年)
ここでは物語内容的に「這ひ上」る行為と「投げ出され」る行為とが何度か繰り返し行われた訳であるが、語りの水準においては、始めに幾度かn=nの関係で語られた後に、傍点部のごとく括復法を用いてまとめられている。こうすることで、実に簡便に且つ適切な文量を以て二つの行為の反復回数を増加せしめることが可能となるのである。
四つ目は一度起こった事をn度語る方法である。至って簡潔な例を挙げれば「僕は朝どら焼きを食べた、僕は朝どら焼きを食べた、僕は朝どら焼きを食べた」と言うがごとき語りがそれに当たる。実際にこの様な語りが行われることはまず無いが、場面と方法次第で、この種の語りは物語に非常に効果的に作用することができるのである。漱石『猫』の後半、寒月君のヴァイオリンの場面を例に挙げてみよう。蓋しここは『猫』の中でも白眉の一節であり、御飯が何杯でも食べられるほどの名場面である。読み飛ばさないでしっかりと堪能していただきたい。
[endif]-- 「『今晩こそ一つ出て行つて兼て望みのヷイオリンを手に入れ樣と、床の中で其事ばかり考えて居ました。』……『夜具の中から首を出して居ると、日暮れが待遠でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠つて待つて見ましたが、矢張り駄目です。首を出
[endif]--すと烈しい秋の日が、六尺の障子へ一面にあたつて、かん〳〵するには癇癪が起こりました。上の方に細長い影がかたまつて、時々秋風にゆすれるのが眼につきます』……『仕方がないから、床を出て障子をあけて祿側へ出て、澁柿の甘干しを一つ取つて食ひました』……『夫れから又もぐつて眼をふさいで、早く日が暮れゝばいゝがと、ひそかに神佛に念じて見た。約三四時間も立たと思ふ頃、……首を出すと豈計らんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかん〳〵する、上の方に細い影がかたまつて、ふわ〳〵して居る』……『夫れから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食つて、又寐床へ這入つて、……神佛に禱念をこらした』……『夫れから約三四時間夜具の中で……細長い影がかたまつてふわ〳〵して居る』……『耍するに私は甘干しの柿を食つてはもぐり、食つてはもぐり、とう〳〵軒端に吊るした奴をみんな食つて仕舞ひました』『みんな食つたら日も暮れたらう』『所が……最後の甘干しを食つて、もうよからうと首を出して見ると、相變らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたつて……』」
(夏目漱石 岩波書店 昭和四十年)
長く引用したこの部分でおもに注目すべき点は、繰り返される語りの種類である。ここで繰り返し語られる行為は大別するに蓋し以下の四つである。
一:「頭からもぐり込んで眼を眠つて待つ」(神佛への祈念も含む)
二:「三四時間」待ったと感じ「首を出」して外の様子を見る
三:「烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあた」る
四:「障子をあけて」縁側に出、「澁柿の甘干しを一つ取つて食ふ」
この四つは、その反復の性質の相違を以て二分することができる。すなわち一、二、四のまとまりと、それから三とである。両者の相違点は、前者がn=nの関係による反復であることに対し、他方後者は一度起こったことをn度語るものであるということである。換言すれば、一、二、四は行為が複数回に及んだ結果語りも複数回繰り返されたという形である一方で、三は日暮れという一度の行為を何度も何度も反復して語っているのである。日没の遅遅たるをかこつ情の切なるを表す為に、語り手は「烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあた」ることを繰り返し語る事でそれを強調したのみならず、日没をして許多の繰り返された行為――当然それぞれが幾許かの絶対的な時間を持ちうる――を含有せしめているのである。そしてその黄昏裡に含まれた、行為の厭倦たるまでの反復を象徴的に表しているのが、他ならぬ柿を「みんな食つて仕舞」ったという物理的結果なのである。㈢
ここまで見てきた語りの頻度、あるいは前回扱った時間の加減速、これらは基本的に小説内にある種の強弱を与える仕掛けである。しかし、物語言説と物語内容との相関関係は、単に語り手の精神に由来する物語特有のヤマを作り出すだけではない。もしも小説の展開が、語りによって半ば必然的に決定付けられていたとしたなら……。
注釈
一 本文で述べた通り、(語り手による)言説の重要度の軒輊は、或る種の反復が語り手の精神によつて構築されるがゆゑに考察の對象たりうる。また、賢明な讀者諸氏は既に明白に感附いてゐやうと思ふが、物語言説の頻度が示唆する主觀的な重要性は、前囘の加減速の齎す効果にも通じる点がある。加之物語言説の頻度は、時に或る種の反復や省略を以て本質的に物語言説の時間に作用しうるのである。從つて此れらの分析の試みは、獨り語り手の重軽視の尺度を推し量るのみならず、同時に物語言説の持つ時間的領域への逍遥をも意味するのである。
二 と云ふのも、反復する同一の事柄が反復した分だけ語られると云ふ事は、取りも直さず物語言説の反復と物語内容の反復とが數的に對應關係にあると云ふ事に過ぎない。換言すれば、此の種の繰り返しは、畢竟單起法の反復でしかないのである。從つて二つ目の關係は、應に單起法の範疇に收せらるるべきなのである。故に、ジユネツトの云ふやうに、單起法とは物事が「何度生起したかということによつてではなく、两者の數が等しいということ」に拠つて定義されるのである。
三 また、もう一つ非常に効果的な語りの反復の例を見てみやう。
「 杳子は深い谷底に一人で坐っていた。……杳子は平たい岩の上に軀を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンをみつめていた。岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだった。……ゆるやかに傾く河原の、二十米ほど下手から、女の蒼白い横顔が、それだけ、彼の目の中に飛びこんできた。……そこにいたわるべき病人のいることに彼はようやく気がついて、若い登山者らしい態度を取りもどし、女のほうにむかって足を踏み出した。……彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼のほうへ消えようとする彼の姿を目で追った。……彼の歩みは女を右へ右へとよけながら、それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。……そうして彼は女との距離をほとんど縮めずに、……苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのまま歩みを進めた。……彼は立ち止まった。……彼は女のまなざしを鮮やかに軀に感じ取った。見ると……女はまだ胸をきつく抱え込んで、不思議に柔軟な生き物のように腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をかしげて彼の目を一心に見つめていた。その目を彼は見つめかえした。まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女にむかってまっすぐに歩き出した。
後になって、お互い途方に暮れると、二人はしばしばこの時のことを思い返しあった。……足音が近くまで来て止んだ時、その時はじめて、杳子はハッとした。誰かが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている……いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当がつかないから顔の動かしようもわからない。
『頭をぐるっとまわして見わたしてみればよかったのに』彼はある時杳子に言ってやった。
『それがすぐに出来るぐらいなら、あんなところに坐っていなかったわよ』と杳子は笑った。……足音が近づいてきて、彼女のすぐ上のあたりで止んだ。……岩屑のひしめきが傾き上がっていくその中に、男がひとり立っていた。……男は二、三歩彼女に向かってまっすぐに近づきかけて、彼女の視線を受けてたじろぎ、段々に左のほうへ逸れていった。男は杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく……おかしな弧を描いて……歩いていく。……杳子はそのさまをしばらくしげしげと眺めていた。そして……≪立ち止まって。もし、あなた≫と胸の中で叫んでしまった。すると男はいきなり岩の間で立ちすくみ、いったんは逃げ出しそうな構えを取ったけれど、やがてぼんやりとこちらを向き、大きくて臆病な獣みたいに、潤んだ目でおそるおそる近づいてきた。」
(古井由吉『杳子』新潮社 昭和五十四年)
語り手は、出會ひと云ふ一度の出來事を二度語つてゐる譯であるが、その時語り手の焦点が「男」から「杳子」に變はつてゐる事に注目したい。つまり『猫』の時は語り手が寒月君に焦点を當てゝ――若しくは寒月君の言葉を借りて――物語内容を語つたのであるが、ここでは一度目と二度目とで焦点を變へつゝ語りが進行しているのである。
また、この引用箇所は當稿との内容の相違から省略した箇所が極めて多いが、此の作品の冒頭は焦点移行の巧みさも含め、省略するには餘りに高水準である。次回以降、傍点部を中心に再度用ゐる豫定であるので、讀者諸氏には是非とも次回以降までに冒頭部分のみでも一讀しておいて頂きたい。(筆者の手元に一冊あります。何時でもだうぞ)
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