人を信頼するとは・・・
人を信頼するとはどういうことなのでしょうか。そもそも、よく考えてみると「信頼」という言葉自体が曖昧であることがわかります。まず、信頼と似た言葉である、「信じる」という言葉について考えてみましょう。通常、信じるという言葉が使われるときには、信じる対象とその内容が伴います。例えば、「あの人がいう事を信じる」や「その商品の価値を信じる」と使われるとき、信じる対象はあの人や商品ですし、信じる内容としては、(あの人が)言っていることや(その商品の)価値の高さであったりします。
では、「信頼」という言葉はどうでしょうか。「あの人を信頼する」と表現するとき、信頼する対象はあの人であることはすぐにわかりますが、信頼する内容は一体何なのでしょうか。あの人の言う事すべてでしょうか。それともあの人が自分を裏切ることはないという事でしょうか。いや、そもそもそのような意識をもって発言されているでしょうか。確かに、「信じる」と同様に、信頼する内容を明確に伴う使い方がされることもありますが、少なからず特定できない場合があるのではないでしょうか。
では、「人を信頼する」という事はそのような曖昧な行為でしかないのでしょうか。言葉の上で曖昧であるからと言って、実際の行為も曖昧であるという事にはなりません。実際に、それがどのよ`うなものか言葉では明確に表現できなくても、他人から信頼されていると感じたことがある人は多いでしょうし、漠然とこの人なら信頼できると思えるような人がいる人も多いのではないでしょうか。
では、そうした信頼関係とはどのような関係なのでしょうか。抽象的な問いなので、簡潔な事例を元に考えてみたいと思います。
事例1 Aさんは、自分はBさんを「信頼」していると思っています。AさんとBさんは基本的に何でも言い合える仲だったのですが、実はBさんはずっとAさんに重大な隠し事をしていました。図らずもそれに気づいてしまったAさんは、ショックのあまりBさんを信頼できなくなってしまいました。
事例2 Cさんは、自分はBさんを「信頼」していると思っています。CさんとBさんは基本的に何でも言い合える仲だったのですが、実はBさんはCさんに重大な隠し事をしていました。図らずもそれに気づいてしまったCさんは、大変ショックを受けましたが、Bさんがそれを隠していたのには何かしらの理由があるはずだと思い、Bさんを信頼し続けることにしました。
( ただしBさんがしていた隠し事はどのようなものだったのかということは以下の議論の本質ではないので無視します。また、事例1と事例2において、Bさんのしたことは同じとします。)
事例1,2を見比べてどのような印象を持ちましたか?とても単純化した事例ではありますが、「信頼」ということを考えるにはぴったりの事例だと思います。すぐに先を読むのではなく、まず読者自身で次の三つの問いを考えてみてから先に進んでみてください。
①AさんとCさんの本質的な違いは何なのか。
②その違いはどこから生まれてくるのか。
③Aさんとcさんの考え方の違いをどう評価することができるのか。
① AさんとCさんとの本質的違いについて
Bさんのしていた隠し事(以下これを「事件」と呼び、AさんやCさんが苦痛に感じる事柄全般を指すこととします)を知って、結果的にAさんはBさんを信頼することをやめたのに対し、CさんはBさんを信頼し続けたという違いがあります。
②その違いはどこから生まれてくるのかについて
AさんとCさんにとって、「信頼」の意義は違うものであったと考えられます。
Aさんにとっての「信頼」とは、少なくともその一つの条件として、「隠し事のない何でも話せる関係」というものを暗に含んでいたことが予想されます。つまり、Aさんは、無意識的に「Bさんは自分に対して隠し事をしない人だ」ということを「信頼」していたのだということです。この意味では、事件を通じて、Aさんにとっての「信頼する内容」が明確化したということもできます。
一方Cさんにとっての「信頼」とは、事件のような物事ではなくBさんという存在自体に焦点を当てたものだったと考えることができます。Bさんという存在を「信頼」しているからこそ、そのBさんが起こした事件を寛容できたと考えられます。しかしながら、「Bさんという存在を信頼する」とはまだ曖昧な表現のままです。これは、「信頼する内容」が明確に伴っていない「信頼」のままであるともいえます。
③AさんとCさんの考え方の違いをどう評価することができるのかについて
Aさんは、事件のあとBさんを信頼するのをやめてしまいました。ではAさんが次にとる行動は何でしょうか。他者を信頼するのをやめてしまうか、それともBさん以外の信頼できる人を探すかというところでしょうか。しかし、もし信頼できる次の人を見つけたとしても、その人がまた事件を起こさない保証はどこにあるのでしょうか。その人が事件を起こしてしまえば、Aさんはずっと信頼できる人に出会えないままでしょう。このように、「信頼する内容」を明確にすればするほど、「信頼」という行為の性質上、信頼できる人の数は減ると考えられます。しかしながら、事件というAさんにとって耐え難い事柄を最小限に抑えることはできるという利点はあると思います。Bさんは一回事件を起こしてしまった人ですから、そのような事件を再び起こす可能性は十分にあります。そのような人と深く関わらないということは、耐え難い事件から逃れるよい方法なのではないでしょうか。つまり、Aさんの生き方は、自分が生きやすい環境を自分で探していく生き方であるとも言えます。
一方Cさんはどうでしょうか。CさんはこれからもBさんを信頼し続けることができるでしょうし、また別のDさんが現れても、おそらく信頼することができるのではないでしょうか。結果、信頼できる人の数は増えていくでしょう。ただ問題は、相手が起こす事件に目をつぶらなければならないという弊害があることです。全ての事件に目をつぶっていくことは簡単なことではないでしょうし、時にはその苦しさに耐えられなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、そんなCさんをBさんはどう思うでしょうか。自分がどんな事件を起こしても目をつぶって許してくれたCさんを放っておくことはできるでしょうか。全ての人とは言えませんが、多くの人にとってそれは無理なのではないでしょうか。つまり、Cさんは事件に苦しむことは多いかもしれませんが、その分支えとなってくれる人も多くいるはずです。
僕がこの事例を通じてまず言いたかったことは二つあります。一つ目は、「信頼」とはあらかじめその意味するところが明確化されている行為なのではなく、様々な事件に対しどのような対応をとるかということでようやく現れてくるものなのではないかということです。「信頼する内容」が曖昧だと感じられるのは、「信頼」自体が曖昧なのではなく、「信頼」という行為が、様々な事件が起こらなければ本人でさえその行為の本質がわかりえないものであるという性質を帯びているからなのではないでしょうか。
二つ目は、事件が起きた時に、どのような対応をするかで人との付き合いは大きく変わりうるということです。 一般に、人は事件の内容に焦点を合わせてしまいがちです。事件の内容や事件後の対応によって相手を許せたり許せなかったりしてしまいます。しかしながら、相手存在を真に「信頼」するのであれば、本質的な問題はそのような事件ではなく、その事件をどう受け止め、どう相手に対応するかが肝心になってくるのではないでしょうか。確かにいつもCさんのような対応をすることはとても大変なことです。しかし、Cさんのような対応をするという選択肢を持っているということは、生きる上で非常に大切なことだと思います。なぜなら、類は友を呼ぶというように、自分が相手をどう「信頼」するかによって、自分の周りにも同じような意味で自分を「信頼」する人が集まってくると思うからです。Aさんのような人の周りにはAさんのような人が集まってくるでしょうし、Cさんのような人の周りにはCさんのような人が集まってくるでしょう。自分の周りにAさんのような人がいるということは、自分が事件を起こせば壊れてしまう信頼関係ですから、事件を起こさないように常に気を張って生きていかねばならない不安定な関係だといえるでしょう。一方、自分の周りにCさんのような人がいてくれるということは、自分がどんな事件を起こしても受け止めてくれるわけですから、安心できる関係だといえるでしょう。
世の中の人間関係が薄れつつある時代だと言われます。それは、ただ単にインターネットの発達に伴うコミュニケーションの希薄化だけが問題ではないと思います。流動性が激しい世の中で、Aさんのような生き方をしても十分に生きられるようになってきたことが関わっていると僕は思います。確かにAさんのような生き方は、耐えがたい事件から逃れるよい生き方なのかもしれませんが、それが真に心地よい生き方であるとは僕は思いません。自分がどのような生き方をするにせよ、Cさんのような生き方があることを理解しておくことは無意味なことではないのではないでしょうか。