覆面人
ハーバード大学では、全ての一年生が大学の中心にあるハーバード・ヤードという公園の近くに住んでいる。僕は一年生の頃、この有名な場所の一番歴史が深い部分に住む幸運に恵まれた。その結果として、あまりよく観光者などに知られていない様々な面白い伝統を経験することができた。
多くの大学のように、ハーバードでは毎学期が一週間半の試験期間で締めくくられている。秋学期はこの一週間半がクリスマスの数日前に終わる。この時期、毎年ボストンは独特の寒く、雪の多い冬に捕われているのである。それにもかかわらず、この学期の、つまり年度の最初の試験日となる木曜日の前の晩は、ちょうど12時に何百人という大学生がハーバード・ヤードに行き、服を脱ぎ、大学のバンドの伴奏に合わせてヤードの周りを一周走る。もっと正しく言うと、音楽というより、自分たちの叫んでいる声を伴奏として走るので、この面白く奇妙な叫び声を誘発する競走は「プライマルスクリーム」というのだ。
一年生の時、僕はその木曜日の朝に日本美術史の授業の期末試験があったので、プライマルスクリームの晩は部屋で勉強していた。しかし、11時ぐらいから、どうにも勉強しようがなくなったのである。部屋の隣にあるラウンジに、ハーバードのボートチームの全メンバーが集まっていた。僕のルームメイトの二人がボートをする人で、彼ら本人はまじめで他人にあまり迷惑をかける人ではなかったが、僕たちのアパートはプライマルスクリームの「会場」に近かったので、ボートサークルの先輩などが僕たちのラウンジを飲み会の会場として使わせるように頼んできたのだ。それでその晩、酔っ払ってうるさく唱和する、二十人以上の巨大な男性のボート漕ぎに僕たちの狭いラウンジは占拠された。競走自体は12時に始まるが、その準備として飲み込んだ酒の影響で、11時半には彼らの大半がもう素っ裸だったらしい。「らしい」というのは、実は僕は奥の寝室のドアを閉めてその後ろにじっとしていたので、次の日、同じ寝室に住んでいるルームメイトから詳しく聞いたのである。厳密に言えば、彼自身もその晩現場におらず、他の人から情報を聞いたのである。しかも、プライマルスクリームの参加者でなく、いるべきではなかったにもかかわらずそこにカメラを持って潜んでいた人物から。
毎年、プライマルスクリームの次の日、つまり、試験の最初の日、この伝統が非常に恥ずかしい写真という形で「ザ・ハーバード・クリムゾン」という学生新聞の第一面に載る。それらの写真を見ると、写っている者がすべての読者の注目を浴びるのは当然なことだろう。しかし、特に目立つ写真だからこそ、誰がその写真を撮ったかを一考すべきである。僕の一年生の時は、ある自暴自棄なクリムゾン紙のカメラマンがプライマルスクリーム本番の写真を撮る代わりに、前の準備を記録して早く帰るという戦略をとった。被写体に撮影したことがばれて怒られるのを回避するためだったと思う。彼はそっと僕のラウンジに入り、誰にも見られずに、彼の大変な仕事を早めに終わらすために頑張っていた。彼はそれまでの人生でそんな戦略を立てて成功した経験でもあったのだろうか。今でも私は信じられない。結局、酔っ払ってテストステロンでハイになったボート漕ぎの一人が、カメラを持ってバットマンの覆面をかぶり、片隅に隠れているユダヤ人に気づいたのは、必然的な成り行きだ。ぼんやりと物音を聞いていただけの僕ですら、その瞬間を覚えている。
「このようにして、僕の一年生の時のプライマルスクリームでは、一番強く声を出した人は裸の走者ではなかった」というような結末を書きたいが、それは嘘になってしまうだろう。僕は酔っ払ったボート漕ぎの集団が、ハーバードの大学生らしく、この変態をどうしてくれるかについて論争していたことしか覚えていないのだ。僕が知っている限り、ラウンジで撮られた写真はどれも掲載されていなかったので、カメラマンが逃げる前にボート漕ぎはなんとかして彼のカメラを奪い取ったようである。他方では、僕のルームメイトの知人であるカメラマンは、おそらくその忘れても良い夜をボートサークルに思い出させない方がいいと判断したのかもしれない。
(日本語を直してくださった秋澤委太郎先生、山下彩氏に深く感謝を申し上げる。)