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佐々木徹氏「いろは歌」に関する私見

いろは歌

佐々木 徹(四期生)

 まろをつれ

 にしとはんたいの

 みやこへゆく

 きせるひそめ

 むちよけてふす

 なお

 ほねもかえらぬうわさあり

何らかの貴人に付き添う人物の作とみられる此の作であるが、表層的な語意に関しては恐らく此処に贅するには及ばないと思われる。洋の東西を問わぬ広大な知見から極めて繊細にして深遠な王維研究をされた故小林太市郎博士の云う様に、優れた詩人は、その作品内に必ず暗号を用いるのである(漢詩大系『王維』昭和三十九年 集英社)。従って、我々は鑑賞と云う行為の下に常に其の暗号を解読せねばならない事は最早論を待たない。そして其れは、当然此の作品に対しても同様である。

 そこで、この詩の暗号を解読せんとすれば、まず目に付くのは「にしのはんたいのみやこ」の句である。此処で敢えて都の方角を明確にしていると云う事は、作者(或いは作者が設定した作中人物)が「にしのはんたい」にある都、即ち東京を相対的な都として捉えている事を意味する。「にしのはんたいのみやこ」があれば、単なる「みやこ」が存在すると見るのは当然であるし、其れ故に詠える者の視線は東京を西に望む「みやこ」、即ち京を中心としていると見て差し支えないだろう。

だからと云って此の詩の主人公が極端な京都原理主義者であると見るのは些か危険な読みである。ここは寧ろ、詩の背景が現代で無く、東京が未だ相対的な都市として存在していた時代、云わば幕末から明治時代であると見るべきだろう。

其れらの時代や、とある貴人が京から東京へ徃くと云う主題を考慮するに、これは和宮降嫁に陪せし者の為せる詩であるとは見られないだろうか。和宮降嫁とは、文久三年(一八六三年)に、皇女和宮が十四代将軍徳川家茂へ嫁に徃った公武合体政策の一である。当時宮には有栖川宮熾仁親王と云う許嫁があった為、歴史的一大政略結婚の為に東下する宮の心境は決して晴れやかでなかった筈である。事実和宮はこの政略結婚を拒絶する意を示していたとも言われている。当然旅路における心情は、一部の政治家を除き多くの付人とて同様であった筈で、その中で詠まれた詩であると見れば、この詩はその深意を明らかとするのである。自然、「にしのはんたいのみやこ」は、東京より寧ろ江戸と云うべきであろう。和宮降嫁に際して行列に動員された人員は二万を超えるとされ、詠える者はその一であろう。普段嗜む煙草も和宮を憚って遠慮し、御者の振る鞭を交わしつつ、彼等一行が辿り着いたのは中山道上宿である。其処には縁切榎なる樹木が生えており、古来男女の仲をすっぱりと切る霊験を持つとされている。和宮一行が縁切榎の前を通る際に、宮と家茂との縁が切れてしまわない様に菰が巻かれ、霊験を抑える様に配慮されたと云われている。この詩はまさに其の様な場所で詠まれたとは言えないだろうか。つまり、閉鎖的な宮中において、屡其処へ徃けば生きて戻れないとさえ噂された、離れた異郷の地江戸へ宮が政略結婚の為に徃かれるのだけでも十分に傷ましい事であるのに、ここで縁切榎の前を横切る事になろうとは、実に縁起が悪く忍びない事であると云う事である。本人の意思をよそに、幕府と朝廷の一部の者との間で進められた政略結婚に翻弄される宮や周囲の付人達のやるせない思いが、例えば縁切榎と云った何らかの契機により脳髄を射貫く慷慨と化し、其れが詩と云う形で現れたのである。「にしとはんたい」や「ほねもかえらぬ」と云った句からは、いろは歌と云う優雅にして厳格な形態の中で懸命に発せられた、此の婚姻を恨めしく思う付人の、道中における悲憤を看取すべきでは無いだろうか。当然「まろ」とは和宮であり、其れが幕府を憚ったが故の婉曲的表現である事は最早云う迄も無いだろう。

 斯様に深遠な詠史的要素を含む詩をいろは歌で為し得る佐々木氏の作詩能力は、散文においては凡そ現代には稀な高い水準にあると思われる。今後、更に洗練された珠玉の散文は固より、いろはの制限無くとも制作に労を要する七五調や韻文といった形態の作品への着手も大いに期待すべきである様に思われる。其れを随意に為し得た暁には、氏が現代のいろは歌の第一人者とて、衆人の真先に指を屈し得る処の人と為るのは疑う余地が無いだろう。

#第2巻

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