大学生による大学生論ーマウンティングから抜け出すためにー
大学生とはなんと不安定な存在だろう。高校のように共通の目的があるわけでもない。誰が偉いのか。何をすればいいのか。その問いに対し、大人は「好きなことをやって沢山失敗しろアハハ」というようなことしか言ってくれない。もちろんそれは正しい。でも、多くの人が「自分は何がしたいのか」が分からない。「そんなことない!俺にはやりたいことがあってそれに向かって邁進している!!」という人もいるだろうし、それはそうなのかもしれない。でも、「自分のやりたいことは分かって当然だ。だって自分の内面の問題じゃん」と考えるのは危険な思考と言える。自分のことを理解するのは大変なのである。これから、典型的な大学生像を幾つか提示し、考察を加えたい。あまりにキャラ化しすぎでこんなやついないよ、と思われるかもしれないが分かりやすさのために単純化していると考えてほしい。
意識の高い大学生
大学生用語というものがある。有名なのだと「ワンチャン」とか。「意識高い」もその一つだ。中にはそういう大学生にのみ通じる言葉での会話に対してイライラする方もおられるだろう堪忍していただきたい。意識の高い学生の典型例としては、東南アジアに行ってボランティア活動をし、その様子をFacebookに上げ、やたら人脈と言い、コミュニケーション能力が高い(というより暑苦しい)という感じだろうか。
後の議論のために「意識の高い学生」の定義を定めておこう。
1 大学内に留まらず、社会に関わる活動を行っている。(公共性のある活動を行う。)
2 少なからず将来の自分の進路を明確に意識している。
他にも様々あろうがとりあえず広く大きく捉えるためにこのあたりにしておく。
意識の高くない大学生と世間の人は「意識の高い」大学生をどう見ているのだろうか。とりあえず第一声は「大学生で活動してるなんてすごーい」だろう。こういう言葉の背景には「大学生は遊ぶもの」という常識がある。大学卒業後は長くつらい会社員生活が待っているのだからモラトリアムの時期はとにかく遊んでおくべきで、たくさん遊んだやつは就活にも強いみたいな神話は根強くある。一方で「大学生活はモラトリアム」という概念自体が薄れつつあるのも事実だ。就活には学歴だけでなく、論理的思考力(いわゆる地頭力)やコミュニケーション能力、クリエイティビティといった測定の難しい能力が求められるようになった。この傾向はハイパー・メリトクラシ―主義と呼ばれている。
大学生の間にそういう力をつけなければ高学歴でも就職できないのではないか…。そういう時代の雰囲気が学生を「意識高い」へと駆り立てる。同時期にオールラウンドサークルが集団レイプを繰り返していたというスーパーフリー事件が起き、飲酒を伴う従来のサークル(一番典型的なのがテニスサークル)に入る人が減少したという事情もある。また、インターネットの普及で学生でも人脈や資金を得ることが可能になり、起業する大学生が現れ始めた。また、海外に行くことも昔よりはるかに手軽になり国際志向の学生も増えた。意識の高い学生の2大派閥は国際関係とビジネス関係であることは誰もが納得する点であろう。
では、一見すごそうな「意識の高い」大学生は本当にすごいのだろうか。この点には、最近批判が噴出している。ボランティアに行くといってもその実態はほとんど旅行であり、役に立つどころか迷惑であるといわれたり、起業サークルと銘打っても実態は単なる勉強会であったり。また、コミュニケーション能力を意識しすぎるあまりそのトーク力をうざがられたり自分の実績をアピールしすぎて嫌われたりといったエピソードには事欠かない。そもそもボランティアも学生起業も社会人ならすぐにできるようなことをちまちまやっているにすぎない。社会人の方が圧倒的に人脈も金もあるからだ。そんなことにどれだけいみがあるのだろうか。ここで一度「意識の高い」大学生の考察は止めるが、この文章は批判を目的としたものではないので最後まで読んでいただけるとありがたい。
ウェイ大学生
ここでは、意識の高い大学生とは真逆の人種を扱う。「ウェイ」とは飲み会や色恋沙汰が大好きで特に公共性のあることをやっていない大学生である、と定義しておく。昔ながらの大学生像と重なる人達だ。テニスなどのスポーツ系サークルに入っていることが多い。彼らは今の時世なかなか批判を浴びやすい人種である。「意識高い」大学生からは「いつも飲み会とスポーツとセックスのことばかり考えていて大学生活を無為に過ごしている」と思われている。ウェイ大学生の方も意識の高い大学生を見て自分の将来に不安を覚えたりする。「あいつらは社会に関わっているのに俺たちは遊んでて大丈夫かな…」という不安がよぎる。一方で、「社会人になったらこんなに遊べないから今のうちに遊んでおくのが大学生だ!意識高い大学生は社会人のまねごとをやるばっかりで、大学生活を無駄にしている。しかも俺たちだってサークルの運営やらで能力はちゃんと身につくし…」という批判の論拠も持っている。意識高い学生も、世間からは真面目と思われるような活動をしているけれどもそれが報われなかったらどうしようという一抹の不安を抱えていることが多い。まあ、誰が何と言ってもスポーツや飲み会やセックスが社会に直接利益を与えることはないし、サークルの友達と朝から晩までダラダラ過ごす時間は無駄だろう。もちろん後になってそういう時間が楽しかった…と回顧することもまた正しいことではあるが。
ここまで大学生活の中で目立つ二つの人種について考えてきた。大きな違いはは将来に対する具体的なビジョンがあるかどうか、といえるかもしれない。しかし、僕が指摘したいのはその点ではない。この二類型は真逆の存在のように見えるが、実はお互いに依存している。多くの場合、彼らのアイデンティティは「あいつとは違うことをやっている」という形で確保されているのだ。先に上げたように意識の高い人たちは「大学生活でスキルの向上を目指さないウェイ大学生より俺たちが正しい」と思い、ウェイ大学生は「楽しむべき大学生活を社会人の真似事に費やす意識高い大学生より俺たちが正しい」と思う。この傾向は単純化された二類型に留まらず、大学生全体に顕著な傾向と言える。
この現象は共通のゴールを持たない大学生だからこそ起きるものだ。高校生であれば大学受験が目標であり、成績がその尺度となる。何をやればいいかも明確だ。社会人も自分の所属する集団の業績向上が共通目標としてあり多くの場合、仕事も上から割り振られる。だが、大学生にはあまりに選択肢がありすぎる。だからこそ、「他人との比較」が無意識に評価の尺度となる。この傾向をSNSの普及が後押しする。手軽に自分の行動を他者に知らせられるようになったことで、自己承認欲求が肥大化したのだ。いかに他人より自分の方が楽しい大学生活をすごしているかを主張するため、SNS上には「社会人とランチ!」「昨日の飲み会楽しすぎて覚えてない笑」といった投稿が氾濫する。
批評家の村上裕一は「インターネットには傷つける奴と傷つけられる奴しかいない。だからみんな傷つける側に回ろうとする」と言う。自分がいかにリア充であるかをアピールする行為は他者への一種の攻撃だ。他者より充実している自分を見せることで、自分のアイデンティティを確立しようとする試みが蔓延している。この行為を一言で表すなら「マウンティング」という言葉が適当だ。マウンティングとは、サルが社会的順位を確認するために上位のものが下位の者に馬乗りになる行為である。サルなら力という絶対的な評価基準がある。しかし、大学生はどうだろう。絶対的な評価基準がないために無限のマウンティング合戦に巻き込まれてしまうのが現代だ。和敬生にもその傾向がある。自分たちがどれだけぶっ飛んだことをできるかを、和敬生以外の人にアピールすることで和敬塾の優位性をアピールしアイデンティティに変える。こういう心理が和敬塾にも存在している。
ここまで、典型的な二種類の大学生を極端に単純化したうえで両者を比較した。そして、一見真逆の両者が互いにマウンティングしあうことでアイデンティティを確保していること、マウンティングは大学生の間に蔓延していることを述べてきた。では僕たち大学生はどうあるべきなのだろう。この問題に答えを出すことは非常に難しい。一つ言えることは自分なりの評価基準を持つことが必要だ。他人よりいかに優れているか、ではなく自分の中の絶対的な評価基準を構築すべきだ。その評価基準は絶えず更新されて構わないし、そうあるべきだ。また、その基準は明文化できるようなものでなくても構わないかもしれない。
どうあるべきかは筆者自身が大学生でもあることからこれ以上の言及を避けておく。また、ここで示された2種類の大学生はあくまでわかりやすいように単純化した姿であり、両方の心理を持つ学生がほとんどだろう。その中でこの文章が大学生の存在を掴む一助になれば幸いだ。