悩むことと考えることの違いについて
悩むことと考えることの違いってなんだろう?ふとこう思うときってありませんか?僕は物事に悩んでいるとき、そこから対処し、抜け出すために考えることを意識してきた。しかしイマイチ納得できない気持ちがあるので、整理する意味で書こうと思う。まず悩むことと考えることの特徴を述べて、違いを明らかにしていきたい。
考えることは科学的、合理的思考であり、物事や事態を解決、好転させるために不可欠である。そのためポジティブで冷静な行為というイメージだろう。また人間はどこで考えるのかと聞いたら、多くの人は頭や脳と答えるだろう。
一転悩むことはあまり良いイメージはない。ウジウジ、くよくよといった形容詞が当てはまりそうだし、物事の解決にはあまり寄与せず、時間のムダだ、感情の浪費だといった感じだろうか。またどこで人は悩んでいるかと聞くと、おそらく多くの人は心臓のあたりを手で押さえるだろう。彼らの多くが人体には心という器官はなく、それも脳の所産とおそらく知っていながらである。果たしてそれはなぜなのだろう。
僕が悩まず、考えたいとおもったのも、考えれば前進できると感じたからである。ネットで僕と同様に「悩むことと考えることの違いを知って、仕事に役立てよう」といったページがあったが、腑に落ちない。このもやもやは何だろう。
一つに、ビジネスに役立てることが目的と銘打ってあるせいか、考えることには価値があり、悩むことには価値がないことが大前提としてある。考えるという行為が価値という尺度では悩むことを支配しているともいえるだろう。ビジネスではお金という価値基準とその目的意識が明確なので当然である。しかしそれは人生のすべてに適応することは拡大解釈であり、間違いである。
考えることと、悩むことの関係について
できるだけ悩まず、「正しく」考えると物事は解決し人生うまくいくと人は多かれ少なかれ思っている。自分は思っていなくても、自分の子供には深く悩むことなく、幸せになってほしいと思う親は多いはずである。悩むことはあまり価値がなく、心身を消耗するだけで、不幸だと。ここから考えることは、いかに悩まないか?ということである。いかに悩まず、考えるかという主題の中の重点がどこにあるかわかる。
その手段として巷では二つの悩み対策が流布している。1つは悩まない。考えもしない。できるだけ、バイト等で忙しく過ごし、友人と楽しく騒ぎ、充実した日々を過ごすやり方。もう一つは悩まないよう考えることである。科学的思考というべき、要因と効果を短絡的に結び付けてまで、目的意識や動機の明確化をし、ことにあたるやり方。こちらは考えるという合理的手段であるせいか、社会に広まっていると感じる。例えば就活前の自己分析である。内面をできるだけ言語化することが正しいことになり、悩むことなく自己の内面世界をさらけ出し、または引きずり出されているように見える。現代社会は上記の動きと並行して、心身問題や精神疾患の増加がある。これはなぜだろう?
少し社会に目を向けてみる。僕は今年社会福祉を広く浅く学びたいと思っている。気になっているのは、摂食障害などの心身問題やうつ病や統合失調症などの精神疾患の患者の増加である。精神疾患を心身に不調をきたすほどの悩みを抱えた人だと拡大解釈すれば、悩める人は現代社会にたくさんいるといえる。ひきこもりや不登校なども現代社会を映す別の鏡といえるだろう。
「困難は分割せよ」という言葉がある。上記のような病を患った人を困難に対処できなかったひととしてみる。原因は分割する力の低下と困難の難化の2点が言えるだろう。
困難の難化の致命的なのはそもそも困難を困難として認識できないことである。なぜかわからないけど、学校や会社に行きたくない。行かなければいけないのになぜか体が動かない。しんどい。死にたい。心身が悲鳴を上げるほど悪い状況に追い込まれないと、自身が病んでいることに気が付かないし、追い込まれてさえ尚認識できない。これに危機感を覚えた文科省が唱えたのが漠然とした「生きる力」というものではないか。この種の困難を「生きる力を削ぐもの」として認知したのが行政としての限界であったと思う。2つ目は分割する能力の低下である。SNSの普及による情報化社会の到来によりふにゃふにゃ以下略。
悩むことの意義、価値について再検討したい。
悩むことは非生産的な行為であり、社会的価値を持たない。しかし、その人が真に個人になろうと思えば悩まずにはいられない。悩むことはそのひとにとっての答えをだすために必要であり、社会的価値はなくとも意味をもつからである。自由だと思われる思考は社会的価値にある程度支配されている。悩むことは自分や世間の常識の枠への消極的な挑戦である。これは、嫌々ながら、または自分でも理解できない形で行われる。うつ症状や不登校の場合、体が脳の(思考の)いうことを聞かなくなるが、これは自分の体の知性が脳の思考(社会的規範に支配された)に異議申し立てをしている状態であるならば、まさに適例であろう。
人は自分の価値観がそれ程一般社会のものと離れていることは思うことはまれである。自分の消費の形は自分で形成したものであり、自身の欲望の需要にあったものが社会に供給されていると思う。欲望の需要そのものがデザインされていることには気が付かない。そんな人は価値のなかに意味を見出している。いわゆるブランドである。そんな彼らが悩みに取りつかれたら、体験するのは今までの世界とは別の内面世界である。病むという極端な形で価値と意味は別ものであることを突きつけられることを、悩みの海に突き落とされると感じるのは無理からぬ話である。では、そうした場合突き落としたのは誰か。悩まずに考える。その逆の行為は果たして、無意味だろうか。
まとめ
「悩むと考える」から「脳と心」へ。そして「意味と価値」へと、対比しながら両者の違いと関係の在り方がわかればと書いてみた。何人かの新入生が「僕は考えることが好きです」と言っているのを感じて、眩しく感じると同時に自分は果たして考えることが好きなのかという疑問があったのでこのテーマにした。僕は悩むことのほうが好きかもしれない。結論は出せなかったが書くことで自分の頭を整理できた。