東京といえば何だろうか・・・
この文章を書くにあたって東京を特徴づける要素を色々と考えたが、思いついたものはとても少なかった。しかしながら、僕が気付いた要素は現代社会との類似性を含んでいると感じた。この文章では、東京について僕が感じたことをもとにして、現代の在り方への跳躍を試みたいと思う。主観的な考察ではあるが、理解できる部分もあるのではないかと思う。
まず、東京の特徴としてあげられると思うのは、とにかく人が多いということである。上京して間もない頃、朝早く渋谷の駅構内へ行き、あまりの人の多さに度肝をぬいたのを今でも鮮明に覚えている。不特定多数のひとが互いに見向きもせず一方向に歩く人々の姿はまさにベルトコンベアーのようであった。
人が多いということは、ただ単に渋谷駅の風景に影響を及ぼしているだけではない。まず、それだけ多くの消費者がいるわけであるから、経済活動が活発になる。また、様々な人が集まるわけだから、新たな文化や流行も生まれやすく、拡大しやすい。人が多いという要素は実際の東京の在り方に多く影響を与えていると考えられる。
しかしながら、人が多いということに対して僕が興味を抱いたのは、もっと当り前で小さな発見である。それは、多くの人の波の中では、自分の思う方向に上手く進めないということである。これはとても単純な発見ではあるが、よくよく考えると現代の根本に通じる一つのエッセンスを含んでいるのではないかと僕は思う。
例えば、民主主義において、少数派はどれほど努力をしたところで多数派の意見を覆すことができるだろうか。果てしなく難しいと言わざるを得ないだろう。これはまさに東京の人込みの中で僕が感じたことではないだろうか。多くの人が集まってしまえば、それだけで大きな力を持つことになり、少数派は身動きがとれなくなってしまう。近代以前は、このようなことは今よりも少なかったはずである。権力者は自らの意見を簡単に通すことができたため、権力者さえ説得することができれば少数派の意見も通すことができたはずである。権力者が完璧な人であれば、多数派の意見だけでなく少数派の意見も取り入れ世の中は円満に動かすことができたのである。しかし完璧な人でなかったとしたら・・・色々と問題が起こる。
現代、このリスクを回避するために生まれたとも考えられる民主主義が広まっているが、実際にはどのようなことが起きているだろうか。民主主義において多数派が絶対である。何かを実行するにはまず人をかき集めねばならない。その際に必要なのは、正しいかどうかではなく、どれほど上手く正当化できるか、そしてどれほど人を集める能力があるかである。民主主義では誰もが政治に参加できるシステムであるなどというのはただの理想に過ぎない。なぜなら、個人の考えを通すためには不特定多数の人を集める力が必要だからだ。それほど多くの人に自分の考えを伝え、また支持させるなどということは、ほぼ不可能ではないだろうか。まさにこれが現代の政治の在り方のように僕は思う。つまり、個々人の意見は捨象され、いうならば小さすぎてとるに足りないものかのように扱われざるを得ず、多数派の意見ばかりが通っていく。そして政治家も多数派を目指すことしかしない、というかそれをするしかない。なぜなら少数派にいたところでできることは何もないからである。民主主義とは所詮これほどのものにすぎないのではないか。
だいぶ話がそれてしまった。東京の話に戻そう。東京の特徴として次に挙げられるものは何だろうか。僕は商業施設の多さではないかと思う。東京都内の商業施設の数は確かに多い。どこにいても店がすぐ近くにあるので、お金さえあればものに困ることは決してないし、暮らしやすさにおいてこれ以上のものはないといえるだろう。これは上京してきた誰もが感じていることではないかと思う。
では、商業施設が多いということは一体どういうこととして捉えることができるだろうか。僕は、どれほどその都市が栄えているかをはかる一つの指標として捉えることができるのではないかと思う。栄えるという抽象的なものを商業施設の数という具体的なもので捉えてしまうことに抵抗を覚える人も多いと思う。しかしながら、これはいくつかの点で正当化することができる。
まず、商業施設の数が多いということは、それだけ人が集まっているかつ、その中には富裕層が混じっているということである。でなければ、消費活動が盛んに行われるはずはなく、これほど多くの店が存在できるはずはない。そして富裕層が集まる街というのは、きれいで治安もよく住みやすい場所である可能性が高い。また、商業施設の数が多いということは、新たな店を出す人も多いはずである。つまり、ビジネスの場としても十分な土壌があるということである。このように考えると、店の数の比較が栄えているという尺度として有用だということがわかるかと思う。
実際に東京の中でも最も栄えている都心や副都心などは基本的に店で覆いつくされている。一歩外に出れば、右も左も上も下も店だらけである。看板も無数に存在し、欲しいものは何でも手に入る。なるほど、この風景こそが繁栄の行きつく先を表しているのか。
しかしながら、その景色は果たして美しいだろうか。もちろん人によって捉え方は異なるとは思うが、少なくとも僕は決して美しいとは思わない。おそらく秩序性を感じないからだろう。ひしめき合った店は境目がわかりづらく、どこにどんな店があるのかすぐにわからない。また、自らの店を必死にアピールしようとした多くの看板も、皆が同じようなことをするため同化してしまい、僕の目に入ってこない。この状態は、各々がそれぞれの利益を求め、都会という蜜を求めて群がりもがき続けたなりの果てのように僕には感じられる。
秩序立った状態を美しいと感じるのはなぜだろうか。僕としては、自然界自体が無秩序への方向性を持っているからだと思っている。いわゆるエントロピー増大の法則というやつである。つまり、通常世界は無秩序であるからこそ、その中に秩序性を発見したり、創造したりすることで僕たちは感動し、その秩序性を美しいと感じるのではないだろうか。
そうだとすると、長い歴史を経て人類史上最も発展している現代は、秩序性を捨て、自然界と同等の無秩序状態に回帰しようとしているということになる。人間は美や秩序を求めて様々な活動をしてきた。特に日本においては、自己の存在をさしおいてまで美学を重視し、みな秩序を保つ行動をしてきたはずである。これはいうならば、自然界から距離を置き、人間としてのアイデンティティを求める行為ではなかったか。しかしながら、現代は、その歴史を振り返ることをせず、むしろ嫌厭し、分子レベルと同じ行動を目指そうというのである。
この現象は人と人との関係においても同じことが起きている。上下関係という秩序が崩壊しつつあり、他人との付き合いも浅くなりつつある。個性個性と言って他人と違うことをしようとはしているものの、みながそれを求めれば同化してしまい、互いに見分けはつかなくなっている。他人という引力を失った個人は、他人のことを顧みない好き勝手な行動が横行し、徐々に人間全体の秩序が失われている。まさに分子の振舞いそのものである。
僕はここで東京を特徴づける二つの要素についてとその跳躍を述べてきた。その中で僕は色々な批判を書いたが、決して現代は最低だと言いたかったわけではない。なぜなら現代は過去に比べて比較にならないほど住みやすい時代であり、それは人類が目指してきたところであろうからだ。しかしながら、その結果人類が必然的に行きついた先がこのような状態であることを僕は悲しく思うのである。だからといって僕は何の解決策を持っているわけではないし、むしろ解決法が存在するとも思っていない。所詮人間は生物なのであり、欲望を超えた存在にはなりえない。この前提がある限り、個々の自由と権限の尊重と、人間全体の秩序性の保持は不可能だと思うのだ。僕はただただ人間の完成度の低さを嘆いているのである。
#第2巻