高校と大学における学習内容の断絶に対する批評と提案
まず最初にはっきりさせておきたいことは、高校で習う内容は大学の内容と比べて非常に限定的であり、両者には大小様々な隔たりがあるということです。大きい隔たりの例としては、高校の数学ではベクトルと行列をそれぞれ独立したものとして扱い両者の類似性には全く触れないのに対し、大学では初めから類似性をもとにした議論が進められます。また物理では、高校では式の導出過程において容易な微積計算であっても微積を使わないようにしているのに対し、大学では初めの授業から微積を用いた計算をしています。また細かい隔たりの例としては、高校では不等号を≦や≧といった記号を用いるのに対し、大学ではそのような記号を使うことはなく、≤や≥を用います。他にも様々な隔たりがあり、中にはその隔たりの存在意義がわからないものも多々あります。僕はこのような隔たりが、大学に入学した多くの学生が、今まで習ってきた内容と大学の内容との違いに仰天し、初めから勉学に適応できず、勉強に対する意欲を失ってしまう原因の一つではないかと考えます。
上記の問題の原因と解決法を考えるために、高校と大学の違いを踏まえ、高校での勉強の意義について考えてみたいと思います。最も大きい違いとしては、義務教育ではないとはいえ高校にはほぼすべての人が行くのに対し、大学へ行く人は希望者だけであるという違いがあります。そのため、高校では誰もがわかるような形で授業がなされなければなりませんが、大学では、希望者が自主的に学ぶはずであるという前提で授業が進められており、また教える内容に規定はありません。
この違いを踏まえると、大学進学者と非進学者で高校における勉強の役割が違っていることがみえてきます。つまり、高校での勉強の意義として、①中学校と大学の橋渡しをする、②中学の知識を超える日本人としての一般教養を身につけさせる、というものがあるとすると、非進学者にとっての高校での勉強の意義は②だけで十分でしょうが、進学者にとっては①と②両方の役割を果たす必要があります。現教育システム下において、②については、一般教養の範囲がどこまでなのか、また実際の学習者が学習内容をテストを乗り切るためだけではなく知識として身につけているかどうか、という疑問はさておき、現在の教育内容である程度達成されていると思います。しかし、①については、最初に述べた通り、現在の教育内容では確実に不十分であるといえます。高校と大学との断絶があまりに大きいのに加え、高校生に対し高校と大学の違いの認識を十分にさせていないため、橋渡しの役割を果たし切れていないからです。したがって、この点については見直す必要があると考えます。
ところで、僕はあるイギリス人の友人に、イギリスの教育制度や教育内容を尋ねてみたことがあります。イギリスでは公立の中等教育を受けるためにも試験が必要であり、学力によって行ける学校が決まってしまうそうです。また、レベルの高い学校では、日本では高校の範囲にあたる内容を中学生から行っているようです。このように、イギリスでは学力に合わせた教育をしようという試みが随所にあるようです。
イギリスと日本を比較して感じたことは、教育に対する姿勢の違いです。学歴社会ではないイギリスは、勉強を通して何かしらの高度なスキルを身につけることに重点が置かれているようなのに対し、学歴社会の日本では、スキルを身につけるより良い大学に入ることのほうが優先であり、実際の大学での勉強とは似ても似つかないような入学試験を突破するために労力を使っています。また、イギリスでは、学力の高い人にはより高度な知識を提供し、若手の研究者の育成に力を入れ、それを国力の増進力にしようとしているのに対し、日本では、全員が同じ教育を受けるという秀でた人材が生み出されにくい構造をとっており、まさに企業の一員として組織の中に埋もれる人間を作り出そうとしているかのようです。
僕はイギリスの教育システムを盲目的に高く評価しているわけではありません。実際能力重視の教育体制では、能力の高くない生徒が高度な内容に触れることは難しいでしょうし、親から受け継いだ能力を超えた活動をするのも難しくなっていることでしょう。その点では日本の教育システムは評価できます。能力の高い人も低い人も同じことを学ぶがゆえに、落ちこぼれを生み出しにくく、また輪を乱さないという日本独特の文化形成に一役かっていることでしょう。
ここまで、日本の高校教育の長所や短所について、高校における勉強の役割という観点と、イギリスと日本との考え方の違いという観点から見てきました。ここで僕は、従来の日本の教育システムの長所を残した上で欠点を改めるような教育改革を提案します。特に従来の教育では、より高度な知識を求める学生に対するサポートが足りていないので、それを補うための四つの提案です。
第一に、各高校のレベルに合わせながら、高校生が大学で習う内容に触れる機会をもっともっと増やすべきだと考えます。現在では、一般の高校生が大学の内容に触れるためには、自ら難解な参考書を用意して悪戦苦闘するか、先生や知り合いの大学生に尋ねるしかありません。この方法では、ゼロから自分で始めなければならず負担が大きいうえ、なかなか理解できないことが多いでしょう。また、そこまでして大学の内容を知りたくないと思う学生が大半だと思われます。そこで、日ごろから大学の内容を授業に取り入れたり、大学教授との交流会を積極的に設けたりなどして、高校生のころから大学に対する抵抗力をなくし、また興味を持つきっかけを得やすい環境を目指すべきだと考えます。
第二に、大学の内容に興味を持った学生にその詳しい内容を教えることができる機関を設置するべきだと考えます。人間は興味を持ったことに対して貪欲になることができますが、学ぶ気持ちはあっても学ぶ環境が手薄だと、せっかくの学びのチャンスが失われてしまします。また、この機関は、どの学部へ行こうか迷う学生を救う手助けにもなると考えます。
第三に、学習指導要領に縛られた現在の入試制度を変更し、入試問題を大学の初歩的な内容を含めた総合的な問題に変え、詰め込み式の勉強ではなく、主体性をもって様々なことを学ぶ勉強をしてきた学生が合格できる仕組みにすべきだと考えます。そこには、その問題を経験したことがなければ解けないような難問は必要ありません。その代わりに、過去の入試では問われたことはないけれど、大学の内容に興味がある学生ならば必ずどこかで知りうるだろう内容を出題するのです。そうすれば学生も日ごろから様々な内容を、主体性をもって調べようとするでしょうし、将来ほとんど使わないような内容の勉強に固執する必要はなくなります。
第四に、塾制度の廃止をすべきだと考えます。塾では、お金を払いさえすれば塾側から無条件に知識を提供され、主体性の有無に関係ないく入試に必要な知識を習得できてしまいます。これでは、親の所得によって学力格差ができてしまいますし、大学生になってからの主体性重視の勉強についていけなくなってしまいます。そこで、塾という形ではなく、第二の提案に挙げたように、学生が自由に質問しに行ける場所の充実化をはかるべきだと思います。 日本の教育レベルは高いといわれますが、それは平均的学力であって、トップ層だけを比較するとアメリカやイギリスなどの学術先進国の学生に劣っています。従来のように勉強が苦手な人たちに対する手厚い支援を続けるのは大変重要なことですし、それが日本らしい教育でもあります。しかしそれと同時に、日本のトップ層のさらなる学力向上を目指すことこそが、これからの日本を担う人材の育成につながるでしょう。またこの教育改革は、生きる意欲を失いつつある学生たちに主体性を持つことの重要性とその楽しさ伝え、彼らを精神的に救うきっかけとなるかもしれません。