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「To Face Something New --My Study in a Strange Environment--」(たぶん評論)

留学って何さ?

 全くつまらない僕の留学体験に書面を割くのを、どうかお許しいただきたい。

 2014年の秋、僕は独りアメリカに旅立った。中学生以来の海外である。そもそも海外など一人で行ったことがないどころか、飛行機すら一人で乗るのは初めてという有様で、空港では緊張と不安のあまりに空港では常に挙動が不審だったのを覚えている。ついでに携帯電話と大きなスーツケースまでアメリカ到着後すぐに無くしてしまった。あまりのパニックぶりで空港のセキュリティチェックにおいてきてしまったのだ。取り戻すのに一か月もかかったのは今ではいい思い出だ。9か月して、僕はひとりで見知らぬ都市を回れるようになった。空港で右往左往し、荷物チェックの係員に「何をやっているんだ」とキレ気味で聞かれたかの男は、ずいぶんと一人旅に強くなっていた。

 若干クサい物言いだが、米国での留学で僕は強くなれたと思っている。それは、僕が無意識の間に自分が日本ではやってこなかったことに多く取り組んでいたからだと思っている。あらゆることに挑戦すればするほど、個々人の状況への適応力は増すものなのだろう。

 思えば、留学前の自分は寮に依存していた。学部では社交的で、良くも悪くもチャラい学生が跳梁跋扈しているから、僕のようなどんくさいお上りさんはうまくなじめないでいた。「国際的」であることに強いコンプレックスがあったのだ。加えて人間関係のこじれからサークルも早々とやめてしまい、気づけば大学での人間関係の幅が極端に狭くなっていた。寮に帰れば顔見知りが大勢いるという和敬での生活に、僕は完全に頼り切っていたのだ。留学生活の序盤もさして生活スタイルは変わらなかった。授業に行き、独り飯を食らい、帰路に着くだけ。変化のない生活。対して、知り合いはみんな楽しそうな写真をフェイスブックにあげている。嫉妬が沸き起こった。とそれでも、どこかで話す友達が欲しいという気持ちはあった。

 確かあれはアメリカでの生活が始まって1か月ほど経った頃だ。たまに行くダウンタウンのアジア料理店。マスターにもそろそろ顔を覚えられたころだった。そこでとあるアジア系の男性に話しかけられた。某アニメの亀仙人っぽいシャツを着ていた。聞けば現地の学生で、典型的な日本びいき、というかアニメオタク。なぜか気が合った僕は連絡先を交換し、彼が入っているという留学生と現地学生の交流サークルのグループページに入れてもらえた。そこから人間関係が一気に広がっていった。ほかの学生に比べれば知り合いの人数は少ないが、それでも充実した学校生活が送れたと思っている。やったぜ。

新しいことに挑む

 つらつらと偉そうでつまらない文章をかいてしまったが、僕が言いたいのは、「何か新しいことをやってみませんか?」ということだ。別に留学などしなくてもいい。でも、どこか自分が経験していないことに出会ってみると、自分が変わっていくというその意味に気づけるのではないか。

 といっても、ただ新しいことに挑戦するだけでは、何の成果も得られない。例えば、人生初めてのバンジージャンプに挑戦した男(別に女でもいいけど)がいたとする。はたしてこの男(女)は何か人生の糧を得られるだろうか。否。大事なことは、自分にとって何が新鮮か、何が普段と違うのか気づくことだ。この例でいえば、バンジージャンプを飛ぶことへの恐怖をどう克服したとか、飛んでいる最中の風景が綺麗だったとか、そうした現象に気が付けるなら何か得たものがあったといえるだろう。かくいう僕もバンジージャンプは未経験で、どんな経験なのか分からないのだが。

 僕の経験から一つ。留学先で、互いの価値観を知るという貴重な経験ができたのは素晴らしかった。僕が足しげく通った留学生交流サークルには、敬虔なクリスチャンの学生が頻繁に出入りしていた。その関係で、週1で聖書の抜粋を読みまわして議論をする機会があった。僕はクリスチャンではないから、彼らキリスト教徒の発言から垣間見えるものの見方、考え方は新鮮そのものだった。例えば、彼らの考えでは、神はいつも頑張っている自分たちを見てくれていて、困ったときは助けてくれるのだという。究極の楽観主義だ。僕は、ここに自分の主義との一致を見出せた。生来のんきなもので、全力で何かをやればあとは何とかなるだろうというのが僕の考え方だったのだ。ほかにも、クリスチャンと非クリスチャンとの間に「運がいい」という概念の相違を見出すこともできた。神がいるからこそ世の中の事象には全て因果があると考える。僕は唯一神聖な存在は信じないから、起こったことには因果はあっても絶対に「こうだからこうなる」という思考には到達しない。ここで考えたのは、アメリカの世論形成のありかたや、世間一般での正義の力点の置き方などだ。書けばきりがないのでこの辺にしておこう。ただ話を聞くだけなら、ここまで掘り下げられまい。僕がこうした分野に興味があり普段の自分の生活との差異に気づいたからこそ、僭越ながらこのような貴重な経験になったのだ。もっとも、僕がまるで社会学者のようにキリスト教信仰の真髄を完璧に捉えたとはまったく思っていないが、僕の論点ではないから放っておこう。

 ここで問題になるのは、僕がこの事実を知ろうとして何かかつて行動を起こしていたか、ということである。まさか米国留学の理由がクリスチャンのものの見方を知るため、というほど僕は変人ではない。ただ「文化の多様性を知る」というありがちなスローガンを掲げただけだった。その後紆余曲折あって、この経験にたどり着いた。それまでにはカルチャーショック、孤独、嫉妬、ホームシック、謎の腹痛なども経験した。それでも、何とか日本人だけで絡むような生活を送りたくないと思い続けて、ようやく学生同士の交流の場に紛れ込むことができた。

 人が環境を変えるのは、並大抵の心持ではできないことは了解している。新しいことに挑むのもまた然り。しかし、私たちの日常にさえ真新しさがどうやら潜んでいるらしい。たいていは見逃しているようなこうした些細な新鮮さを見つけるのも、なかなか面白いかと思う。日本に帰ってからの僕も渡米前の日本と現在とをたまに見比べている。なかなかこれが面白い。例えば、「この人前はこうだったけど、最近何か違って見える。」といった感じで。それがいい教材(もしくは反面教師)になるかもしれない。されど、その変化を見抜くには、ただぼうっとして過ごしてはいけないだろう。日常にどこか興味を向ける必要があろう。

 一体何が新しい物事に気づくきっかけになるだろう。それは分からない。ただ、好奇心が大きなカギになっているような気が、僕はしてならない。興味が無ければそもそも新しいことにチャレンジしない。また、せっかくのチャレンジも面白くない。自分の好奇心が大きく動いたときが、何か新鮮味のあることに触れる契機なのかもしれない。

まとめ

 身になる経験というのは、絶対でないにしろ見ず知らずのものにぶち当たったときではないかと思う。留学こそ、その最たる例だろう。言葉も文化も異なる土地で生活するということは、かなりエネルギーを使う。しかし、それだけ目新しいことの連続だし、自分の可能性を大きく広げるチャンスでもある。国内でも、新しい趣味を始めるなどすれば、何か変われるきっかけを得られるかもしれない。また、別に留学などしなくても、日々のルーティーンの中に真新しさが見つけられれば何か得られるということもあるだろう。長々と書き連ねたが、だいたいこういうことが言いたかったと分って頂けたら幸いである。

 この文章を、つたないものではあるが、留学へ行く同期のN君に捧げたいと思う。

 そして、この場を借りて僕に寄稿を打診してくれた後輩のK君には感謝の意と、テーマにそぐわない文章を書いた上に脱稿が遅くなったことへの謝罪の意を表したい。

#第3巻

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