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花火

 男が早稻田の、丁度夏目坂通りを登つた處に在る下宿に住んでゐた。北向きの六畳一閒には、茶色い本棚が數多有つた――否寧ろ本棚しか無く、最早本棚が壁と爲つてゐたのである。男は日常凡そ如意の時は必ず書物に向かつて飽きる事が無かつた。實家からの學資も奬學金も、竝べて書物に尤も充てられた。男の部屋は、果たして渠が住む部屋に本が置いてあるのか、或ひは書物の住む部屋に渠が置かれてゐるのか、だうも分からぬ有樣であつた。[endif]--

 男の常常説く處はかうであつた。曰く「書の裡には自分の未だ知らざる情報が埋蔵されてゐる。其れが己の血肉、即ち知識と爲る事に對して堪へがたき愜心を催すのである」と。渠はいつも此の「知識」と云ふ處に力を入れて云つた。男は書淫であつた。畢竟渠は書に、或ひは書に内在する知と云ふ蛾眉に戀してゐたのである。

 男が尤も好んだのは漢籍も殊に唐詩であつた。渠は日夜李杜を打ち誦じて已まず、其の覺へたる處の詩は軽く數百に上つた。

[endif]--![endif]--[endif]--![endif]-- 或る日の晝下がりの事である。男は薄汚い褥に仰臥して、茜さす日の閒に杜甫を讀んでゐた。然しだう云ふ譯か、俄かに、本來四角い筈の絶句が何だかくの字を倒にしたやうに曲つて見え始めたのである。個個の漢字も皆海老のやうに奇妙に反りかえつてゐる。はてなと思つて少し眼を閉じてみた處、やけに瞼裏に光が明滅する。弱つたと思ふや否や、男は激しい頭痛に襲はれた。男は已む無く杜甫を抱いた儘眠りに就いた。幾度か苦しげに寝返りを打つた後、忽ち寝息を立て始めた。[endif]--

 男が目覺めたのは昧爽、新聞も未だ這入らぬ時分の事である。淡黃色の薄い窗掛から漏れ入る曙光は、まうと上がつては邊りを舞う塵埃の中で舞台照明のやうにさつと伸びてゐる。男は褥の中で、随分と脳海が爽やかに醒めた事を快として、ぐわばと起き上がつた。寝覺めの快に反して頭を起こすのは些か骨を折つた。手元の杜甫を捲つてみた處、可なり頭に這入るやうに爲つてゐる。男は珍しく散歩に出る事にした。夏目坂を下り切つた處で思ひがけず友人に出遭つた。彼は何だか釈然としない顏附きで男を見つめて來た。男が聲を掛けると友人は其の儘の表情で、君聊か頭が大きく爲つてはゐないかねと云つた。男は少しく自身の頭を撫回してみたが、そんな氣もするし、さうでは無い氣もする。男は挨拶も懇ろにせず友人と別れ、爪先上がりに夏目坂を登つて徃つた。

 部屋へ歸ると、男は真先に鏡へ向かつた。成程頭が少し大きく爲つてゐる。顏が肥大化したのでは無い。獨り頭のみが一囘り大きく爲つてゐるのである。原因は直ぐに思ひ附いた。昨日の其れは單なる疲勞と思つてゐたが、其の實已に情報が入り切らなく爲つたが故の頭の物理的膨張――否寧ろ擴張であつたのだ。進化だ、と男は思つた。自分は進化した人類なのだと思つた。進化だ進化だと男は小躍りし乍ら離騒を手に取つて褥に這入つた。さうして亦容量の增へた頭に四角い詩句を詰込み始めた。

 頭が擴張してから、物事が以前より随分好く這入るやうになつた。男は、朝夜は下宿で高吟し、日中は圖書館に籠つて讀書をした。

さうして二箇月許り經つた頃である。男は圖書館の地下にゐた。床は處處ぽしぽしとほつれの見える黑い絨毯敷きで、窗はおろか吹拔けすら無いのでやゝ陰氣である。天井の照明はちかちかと頼無く、邊りにはたれもゐない。人の背丈の二倍は有る白い本棚は、天井にすれすれで、其の中にはびつしりと和紙綴じの書物や奇妙な漢籍が竝んでゐる。其の本棚に囲繞されて大きな焦茶の机が雙つあつて、丁度其の一角に男は坐つてゐた。男の斜向かひに老人が獨り來たが、男は絶へて意に介さなかつた。

 男が讀んでゐたのは詩經である。既に其の殆どは能く諳んじる處ではあつたが、律儀に周南から讀み進めてゐた。

[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]-- 唐風を過ぎ、秦風に差し掛かつた時の事である。何やら見た事の無い詩が有る。「終南何か有る、條有り梅有り……終南何か有る、紀有り堂有り……」男は首を傾げ乍ら帳面に句を走り書いた。書き終はるや否や、亦漢字がくねりくねりと湾曲し始めたのである。詩全體が、矢張り西洋文字のKを裏返しにしたやうにぐにやぐにやなつて、何が書いてあるのか絶へて分からなく爲つて了つた。男は、眼を閉じると亦渠の光が出て頭痛がするだらうと思つて、ぐにやぐにやの詩を見るとも無く眺めてゐた。閒も無く、男の視界に何やらぱしぱしとした光が處處に明滅し始めた。ぱしぱしは一向に已む事が無く、忽ち頭痛が始まつた。頭がぐわんぐわんする。脳の中でスクワツシユーが行はれてゐるやうである。ぱしぱしはどんどん激しくなる。男は堪らなく爲つて机に突伏した。[endif]--

 目が覺めると、頭痛は治まつてゐた。ぱしぱしも無くなつてゐる。男はほつとして邊りを見渡した。本棚もある。部屋は矢張り陰氣である。時計が二時閒許り進んだ以外は何も變はらぬ。只、例の老人が本を開いた儘瞠目して、あうあうと云ふ聲ならぬ聲を出し乍ら男を見てゐる。眼鏡を取つて看てみると、眼鏡は男に向かつて斜に情無くばんざいをしてゐる。亦進化したのかと思つて厠にある鏡を覗

やが

[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]--き込んだ處、なるほど矢張り進化してゐる。大村益次郎みたいだと思つた。顏を洗つてみた處、首がやけに怠くなつた。鏡をまう一度見てみると、益次郎よりも大きいやうな氣がした。男は、髪をわさわさと搔揚げた。[endif]--

すがめ[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]--三箇月經つた。まう夏に爲つて了つた。たはかれをたうに過ぎた公園では、花火がのべつ幕無し上がつてゐる。男は、連合ひの女と屋台の竝ぶ前を歩いてゐた。綿菓子屋を過ぎると、赤い暖簾の射的屋の前に人だかりが出來てゐる。人が見ると、三人の男がぽんぽんぽんと随意に射ちものをしてゐる。人だかりが、當ればやれ天晴れだの何のと打ち騒ぎ、外ればやれ下手くそだの何のと囃し立てるものだから兎角喧しい。射ち畢はつた三人は軈て銘銘に菓子なり煙草なり瓶酒なりを手に亦人だかりに混ざつて徃つた。歩みを進めると、煎餅売りが構へてあつた。暖簾には元祖大阪の味なんぞと書いてあるが、果たして何が大阪なのかは絶へて分からぬ。黑い襤褸を着た薄汚い男が、如何にも慣れた風な手附きで橙色の煎餅の上にソオスや天かす、其れから鰹節なんぞを載せてゐる。夫れ煎餅なんぞ日頃鬻ぐには堪へぬ物だらうから、煎餅売りには大方熟練も木蓮も有つた物では無い。たゞ其の妙に小慣れたさまが祭屋台の妙なのである。煎餅売りは前を過ぎて徃く人を眇に睨んだ。[endif]--

 屋台のある通りを拔けて、二人は他の若い男女と同じやうに小高い芝の丘へ掛けた。二人の直ぐ前には女が獨り坐つて空を盆槍然と見てゐる。暗い空には雲一つ無いが、香ばしい煙が蛸のやうにうるつとうねつては、梅雨のながめの雲よりも低く立ち込めてゐる。風も無いし、星も月も見えない。先程から花火が一端の小休止を迎へてゐる其の一帶は、俄かに生じた閒の惡い倦怠の爲に一層蒸し蒸ししてゐた。

 無聊に耐へ兼ねてゐたのは男とて同じであつた。肌着が急にじつとりして、背に圓く汗染が出來てゐた。男は手元の芝を千切つては捩じり、撚るとも無くばらばらにしてゐた。

 「何か樂しい事は無いだらうか?」男が云つた。女は黙つてゐる。

「おい、何か無いのかい?」と男が云ふと、女は耳元の、息がかゝる位の距離迄すつと顏を寄せて、「彩雲光燦柳篠垂、桂水白沙酔妙姿。高踏忽爲竜駿舞、欣聲自作玉珠詩。」とさゝめいた。

「全對格か、誰のだらう。」男が怪訝さうな表情をしてゐる。男は渠の頭の裡に渺茫と廣がる知識の海をざぶざぶざぶと掻き分けてゐる樣子である。然し、一看するに其の詩を發見するのは十を三で割るやうな果無い作業のやうであつた。

 むずがる小兒のやうに適はざる處ある男の氣色を見て、女は始終微笑を浮かべてゐたが、軈て滿面をさつと破して云つた。

 「たれのでも無いわ、私が散歩しながら作つたのですもの。」

びつくり[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]-- 「然し、いきなり中國語を使ふものだから吃驚したぢや無いか。」[endif]--

 「だう、好くつて?」女は甘へた聲を出してゐる。

 「前對が少し甘いやうだ。」

べい[endif]--![endif]--[endif]-- ![endif]-- 「絶句なんだから好いでせう? 私、あなたに背して欲しいわ」女は奇妙な中國語の使ひ方をした。[endif]--

 「分かつた、覺えやう、背してやらう。」

さう云つた時である。嬉嬉として男の袖をくいくいと引いてゐた女の顏が、卒然として鐵薬罐に映したやうに湾曲し始めたのである。また例に拠つて頭痛が始まつた。

女の聲も何だか彼方此方跳ね返つてゐるやうで能く聞こえない。取り敢へず女が云ひ畢つたやうなので、男はまう一度と云つた。

 「えゝと……いけない、忘れちやつた」女が弓手で額を抑へてゐる。相變はらず頭痛はするが、視界は元に戻つてゐた。

 「確か、彩雲光燦柳篠垂……」

 「あゝさう、それだわ」女が如何にも合点したと云はん許りに大袈裟に掌を小突いた。

 「それから、確かあれだ、桂水白沙酔妙姿……」

 「やつぱり貴方すごいわね、スポンヂみたいに覺えちやうのね。」

男は何も云はなかつたが、頭痛はいとゞ激しく爲つてゐた。女が續きを促して來る。亦進化して了ふのだらうかと男は思つた。

「次は……次は、何だつけな。」

「次は、あれよ、高踏忽爲竜駿舞。」

「さうか、覺えやう」

さう云ふと、頭は更に痛んで來る。視界が亦歪んで來た。女の顏が三日月のやうに曲つてゐる。前に獨りゐた女が、何時の閒にか二人組に爲つてゐる。其れも三日月である。此れまでの頭痛とは明らかに違つた。脳味噌の裡で針鼠を強かに怒らせたやうな痛みが頭の奥からから擴がつて來る。男は堪らず顏を顰めた。叫びでもすれば少しは痛みが紛れるやうな氣がするが、横にゐる三日月型になつた彼女の顏を見るとさうは出來ぬのである。仕方無く、座つた儘立てた膝の間にすつぽりと頭を挟んで眼を閉じてゐた。男は堪へ難い頭痛の中にあつても、彼女の七絶の結句を思ひ出さうとしてゐた。頭はじんじんしてゐる。何だらう何だらうと心で繰返し唱へてゐた刹那、ひゆーと云ふ音が細長く響いた。ひゆーと云ふ音の中、欣聲自作玉珠詩よ! と云ふ強いさゝめきが聞こえた。

どーんと云ふ音がして、花が開いた。霜月の葉よりも赤い缺片がありとある方向へ素早く飛び散つて、如月の花なんぞよりもずつと綺麗である。たゞ残念な事に、其れは須臾のうちにちりちりと煙に變はる事が無く其處にずつと居残つたし、人人は感嘆の溜息すら吐く事が出來なかつたのである。

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#第3巻

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